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途端、一同は一瞬にして我に返った。そしてわたわたと慌て始める。二人の万吉は特にだ。
「はっ、早く隠れて!」
「先生? いらっしゃいませんか?」
不思議そうな色の混ざった声が扉の向こうから響く。咄嗟に鏡の万吉が、
「はぁい!」
と返事をしてしまった。当然次の瞬間には、扉のノブに手が掛かる微かな音が響く。彼の軽率な行動を咎める怒声を上げる暇さえなかった。
「いやぁ、先生、お忙しい所すみませんなぁ」
「い、いえいえ……相変わらず暇してたんで」
彼には見えないお化けたちは、部屋の隅に寄って立っていた。鏡の万吉は落ち着かない心臓を何とか抑えつつ、椅子に腰掛け平静を装う。
「実は、先生にお会いしたいという人が見えまして」
「は、はぁ、僕に?」
可笑しな話だ。僕みたいな愛想のない奴に会いに来るような友達なんているか。そう思い、彼はそっと机の下に目をやりかけた。
そこには本物の万吉が、今にばれてしまわないかとひやひや妙な汗を額に浮かべて縮こまっていた。鏡の万吉が視線を送って来たのを見て、咄嗟に顔を顰めて、見るな! と口パクで合図する。
「という事で、お時間宜しいですかな?」
「えぇ、構いませんけど……」
この野郎! 勝手な事ばかり! 本当だったら一発ぶん殴ってやりたい。ニセモノの自分を見上げながら万吉は思う。
するとその時、診察室の扉が開く音がした。それから、こつこつと一定の間隔で鋭く床を叩く音。机の下の万吉から見えたのは、鏡の万吉に向かって座る、ハイヒールを履いたしなやかな足だけだった。
「お久しぶりです」
次に響いたその声に、万吉は驚いて机から飛び出していきそうになった。誰だか見なくても分かるこの声は……。しかしまさか、どうして? それを尋ねたくて、思わず彼女の前へ飛び出して行きそうになった。
「もうすぐ、いっくんの命日だから……家族皆で過ごせたらなって、暫くこっちで過ごそうと思うんです」
診察室にやって来たのは、一の妻である金田 千春と、彼女の腕に引かれる息子の京だったのだ。
「こんっちわ! おじさん!」
「お、おう……こんにちは、京ちゃん。大きくなったな」
「えへへ、僕もう五歳になるんだ!」
鏡の万吉はその言葉に頷き、しゃがみ込んで彼の頭を撫でた。京は嬉しそうにはにかんで見せたが、正直鏡の万吉にとってはそれどころではない。京の身長からだと机の下に隠れている万吉が見えそうになって危ないのだ。
「わざわざご挨拶にまで来なくても結構でしたのに」
「一応、万吉先生には一言伝えておきたくて……いっくんが一番お世話になった方ですし」
違う。お世話になったのは俺の方で……生きてる時も死んでからも……。
「此処で働かれるのも、何かの縁ですかね」
千春はそう言って微笑む。右頬に出来る笑窪が可愛らしかった。鏡の万吉はそれにどきっとしてしまったのだった。
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