1.宇津美万吉の憂鬱

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 自分にしか見えないものがあるという事に、宇津美(うつみ) 万吉(まんきち)はその時から後ろめたさを感じた。嘘つき呼ばわりは基本免れないし、本当だと信じてもらったところで、気持ち悪がられるのが殆どだ。稀にそれを面白がって色々聞きたがる奴もいるが、こっちの気も知らないでいい気なものだ。自分に幽霊を取り憑かせる能力でもあれば、俺も幽霊見てみたいなぁ、とかほざく奴に喜んで取り憑かせてやるのに。  当然そんな能力などなく、自分にあるのは、この世ならざる者の姿を見る事が出来るだけ。この能力を隠すのに、今までどれだけ苦労しただろう。  この町へ来る間にも、幽霊らしき者は散々見た。大抵が幽霊だと分かるのだが、時々本当に人間と区別がつかない時がある。  学生の頃は電車通学だった。ある日、目の前にお婆さんが立っていたので、咄嗟に席を譲ろうと、彼女に声を掛け立ち上がった。ところが彼女は幽霊だったようで、立ち上がった自分に周りからは不審そうな視線が注がれる。特に自分の傍に立っていたおばさんは、如何にも不機嫌そうに此方を睨んでいた。  そんな事があってから、万吉はバスでも電車でも、一切席は譲らなかった。イヤホンで耳を塞ぎ、本を読んでいるふりを決め込む。今日も目の前にお婆さんがやって来たが、気付かないふりをし続けた。すると隣に座っていた学生が、どうぞ、と立ち上がり、彼女に席を譲った。彼女はあからさまに咳払いをしたが、万吉は全く反応しなかった。 「宇津美先生、いやぁ、これはこれは」  役場に顔を出すと、暑くもない環境で額の汗を拭いながら、小太りの男が小走りでやって来た。 「町長の東海林(しょうじ) (ひとし)です」 「お世話になります」  深々と頭を下げる仁に対し、万吉は軽く会釈で返した。 「診療所まで案内します。さっ、参りましょう」  仁は笑顔でそう言ったが、万吉の反応は冷めたものだった。 「いえ、お仕事に差し支えますでしょう。教えて頂ければ自分で行きます」  仁は一瞬、大丈夫ですよ、と言いかけたが、万吉に気を遣わせるのも悪いと思ったのか、そうですか、と少し残念そうに呟いてから、傍にあった町のパンフレットに手を伸ばした。 「じゃあ、これをお渡ししますね」  差し出されたパンフレットには、「ようこそ! 武者の里、谷ヶ崎(やがさき)へ!」とでかでかと書かれていた。その何とも言えない安っぽさに万吉が凝視していると、仁は言った。 「谷ヶ崎とか言いますけどね、この町、谷より山ばっか」  ははは、と仁は和ませようと笑ったが、万吉がその口角をぴくりとも上げなかったので、放った笑い声を回収する事も出来ず、仕方がないのでパンフレットを開き、診療所の場所を教えた。  万吉は一言お礼を言うと軽く会釈をしてから、踵を返して役場を後にした。仁はその背中を、相変わらず笑顔で見送った。すると背後から、町長、と呼ぶ声がした。 「大丈夫なんですか? あのお医者さん」  パソコンから目を離さずにそう言うのは、役場唯一の職員、草薙(くさなぎ) 八重(やえ)だ。かたかたとキーボードを叩く手を止めない。そのタイピングの速さは町一番だ。 「大丈夫って?」 「あんなに冷めてるんですよ。お医者さんって、もうちょっと愛想良いもんじゃないんですか?」 「八重ちゃんだっておんなじじゃない」  仁は冗談で言ったつもりだったのだが、八重は本気にしたのか、きっと彼を睨みつけた。 「私とは職業が違うでしょう。お医者さんは住民の皆さんと近距離で接するんですよ。あんなんじゃ、皆行きたがりませんよ」 「ま、病院ってあんまり行きたがる所でもないけどねぇ」 「そういう事じゃなくて……」  八重は埒が明かなそうなのを察して、溜息をつき、もう良いです、と言った。  文書を作り終え、それを保存する。彼女は人差し指を立てた手を高々と真っ直ぐ上げ、それを勢い良く振り下ろし、エンターキーを叩いた。 「出来ました」 「ありがとう……あのさ、それ、いちいち必要なのかな?」  仁の質問には答えず、八重はまた別の文書を作り始めた。
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