1.宇津美万吉の憂鬱

3/22
前へ
/397ページ
次へ
 鞄を放ると、薄っすら埃を被ったベッドはそれを撒き散らした。古ぼけた椅子に腰かけると、ぎこっ、と嫌な音が響く。背もたれにうんと体重を掛け、たった一つしかない診察室の中を見回すと、四隅ともしっかり蜘蛛の巣が張られていた。  こんなに酷いものとは思わなかった。万吉はうんざりして、溜息をついた。  ……やっぱり、あんな奴の話、聞くんじゃなかったな。 「それがさぁ、鴨が葱背負ってきたような話なんだよ!」  事の始まりは一か月前。同じ大学に通い、万吉と同じ医者になった同僚から電話が掛かって来たのだ。 「谷ヶ崎って田舎、知ってるか? そこ、診療所がないんだってさ。街まで行くには結構時間が掛かるみたいで、住んでる人たちは結構不便にしてるらしい。で! そこで診療所やってくれる医者を探してんだと!」  どうやら彼の親戚が、町長の仁らしいのだ。勿論給料も出るし、一日三食も用意してくれるらしい。そんなうまい話を、賀茂葱(かもねぎ) 祥太(しょうた)というふざけた名の男は楽しそうに話していた。 「……じゃあ、お前が行けば良いじゃん」  思わず言うと、祥太は電話の向こうで、いやいや、と否定した。 「俺はこっちで働いてんので満足してるし。此処、待遇良いしさ」  祥太は街中の大きな病院に配属が決まっていた。技術は万吉と大差ないが、彼には万吉にはない力があった。この口調からも滲み出ているが、彼は何があってもポジティブなのだ。  生や死と向き合う医者が、患者に不安を与えてはいけない。大丈夫です、安心してください、そう笑顔で言える事が、この職には必要だと思う。そしてそれを信用してもらう事も。明朗快活な彼は、病院の患者たちからも人気で絶大な信頼を得ていたのだ。そんな環境で、わざわざ田舎へ異動などあり得ないだろう。 「お前、そこの病院あんまりだって言ってたじゃん?」  いつか彼と飲みに行ったとき、酔った勢いでつい、今の職場の不満を溢してしまったのだ。酒の勢いがあったとはいえ、此処でそれを否定出来ないのは、やはり本心からだった。 「いっそさ、思い切って行ってみれば? 一人で何処まで出来るか、試してみれば良いじゃん。お前、才能あるんだしさ」  祥太は万吉に対して、敬意を示して言ったつもりだった。祥太は本心から、彼の技術を尊敬していたのだ。  けれどその時の万吉には、それが嫌味にしか取れなかった。  ……俺はどうせ、お前とは違うよ。患者に信用なんかされてないだろうよ。俺なんか、きっと要らないんだろう……。  万吉は少し絶望にも似た感情を抱えて、この町へやって来たのだ。  その日は結局、診察室の掃除だけで終わってしまった。すっかりくたびれているところに、仁から電話が掛かって来た。 「あっ、先生、無事に着かれました?」  あの時から相当時間が経っているのに、これで着いていなかったらどうするつもりだったのだろう。 「はぁ、一応、診察室の掃除を」  そうですかぁ、と、大した労わりの感じられない言葉が返って来る。 「先生のお食事をご用意しておりますので、宜しければご一緒に……」  しかしその言葉を、万吉は、いや、と制した。 「もう疲れたので、此処で休みます。お休みなさい」  相手の返事を待たず、万吉は電話を切った。  こういう所だ。彼は分かっていた。でも余計な人付き合いは出来るだけ避けたい。面倒事はごめんだ。  この様子では、暫く患者など来ないだろう。彼は綺麗にしたばかりのベッドに飛び込むと、あっという間に眠りについた。
/397ページ

最初のコメントを投稿しよう!

392人が本棚に入れています
本棚に追加