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「ごめんな、」
もう一度、柔らかい声が響く。
先生、ごめん、てなんですか。何に謝ってるんですか。なんて、聞き返すこともできずに背中に回したい腕を、ただ我慢するだけだった。
彼はきっとわたしの気持ちを知っている。答えられなくてごめんね、なんて言わないでほしい。最初からわかっていたはずだった。遊びだったでしょ?だからそんなこと、言わないでほしかった。
「先生、」
「ん?」
「仕事、遅れちゃうよ」
「ふっ、そうね。」
わたしを離した彼の瞳の奥がまた揺れた気がした。
しばらく見つめたあと彼はいつものようにわたしにキスをした。わたしの顎をクイッと上にあげながら触れるだけのやさしいキス。
「今日も仕事がんばって、」
「わたしは休みだって。」
「あ、そっか。」
「先生はがんばって。」
今日も仕事がんばってと、別れのときはいつもお決まりでそう言う。微笑んだ彼はわたしの頭を撫でて、ばいばいと呟いた。それに、泣きそうになのを堪えて頷いた。
いつも別れるときは、いってらっしゃい、だった。でも今日は、ばいばい、て言う。それはきっと今日が最後だということを示していた。
背中を向ける彼にわたしは何も言えない。追いかけることさえできない。もしも、先生が振り向いてくれたら、わたしはその胸に飛び込んでいくのに。そんなこと絶対にないのはわかっていた。
さよなら、先生。だいすきだった。
ねえ、先生、わたしのことどう思っていた?ちょっとくらいすきだった?
そんなことあるわけないのに願ってしまうわたしは、どこまでも情けなかった。
先生が結婚すると聞いたのは、それから数日のことだった。
本気になったのはわたしだけ。わたしはあなたがほしかった。
わたしは今でも、あなたに会いたい。
ねえ、先生、もう一度、抱きしめて、キスをして。
fin.
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