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あの夜から二日。
けいこは相変わらずレジで赤外線に商品を通す作業に追われていた。
違うのは、職場で話をしたことも無い老若男女様々な人間から声をかけられる様になった事くらいか。
とは言え、軽い挨拶ばかりで皆一様に何か言いたそうにするのを飲み込んでそそくさと離れていくのだが。
実際今も、けいこの立つレジ近くを通り掛かる度に従業員はちらちらとけいこに好奇の目を向けて通り過ぎて行く。
居心地が悪くて仕方ない。
アイドルなんてモノに足を踏み込んだ事実で頭がいっぱいですっかり失念していたが、初めに門田がけいこを探しに職場へ来た事を知らせたのはゴシップ好きの佐伯だった。
つまり〝 けいこに男が訪ねてきた〟事実は普段耐えずに話のネタを探す職場内を瞬く間に駆け抜けていたという事になる。
そんな中をけいこは全くのノープラン、丸腰でうっかりいつも通り出勤したものだから、従業員達の視線を一身に浴びる羽目になった。
「お疲れ様、けいこさん! 今日はその……この間来てた男性はいらっしゃらないのかしら?」
昼休憩でスタッフルームに入った瞬間、サービスカウンターのリーダーを務める黒田が上品な笑顔をたたえてついにダイレクトに口火を切った。
昨日からこれまでけいこに生暖かい笑顔を向けるばかりであった従業員達は丁度いい加減痺れを切らしていたものだから、黒田のそのひと言で待っていましたとばかりに室内の意識は一斉にけいこに集中する。
黒田は結婚してから所謂専業主婦として苦のない生活をしていた五十代前半の女だったが暇つぶしにパートを始めた所、意外にも肌に合ったらしく結局今では上から数えた方が早い期間ここでの仕事が続いていると言うタイプだった。
お陰でオーナーや店長よりも従業員達の私生活や行動を把握している為、正にパート達のボス的存在と言うに相応しい人物である。
そんな彼女の核心に迫るひと言。
けいこの方を見ていなくとも、お弁当を広げている者も、ロッカーの鞄を漁っていた者も、雑誌やスマホに目を落としていた者も、聴覚が通常の倍近く敏感になったのは言うまでもない。
その場に居合わせた者は皆、けいこから出る言葉を心待ちにしていた。
「わ! え? ええと……」
絶対そろそろ来るだろうと思ってはいたものの、こんなに逃げ場のない所で声をかけられるとは思っていなかったけいこは見事に動揺し、用意していたつまらない答えでお茶を濁すタイミングを綺麗に逃した。
「上品なスーツの方ねぇ? 初めてお見かけしたけど、職場にまでいらっしゃるなんてどういったご関係なの?」
真正面からあけすけに問う黒田に進行方向を阻まれそうになるのをサッと躱して自分のロッカーへ進むが、最早聞こえなかった振りすら手遅れだ。
「いや、そんな大した関係じゃないですよ」
「あら? 大した事ないご関係の方が職場までいらっしゃる?」
「確かにそうよね」
黒田にいつもコバンザメの様について回っている真鍋が援護射撃の相槌をうつ。
「いやいや、本当に。……最近始めたお稽古ごとの……事務の方です! 忘れ物を届けに来て下さったんです!」
ロッカーへエプロンを押し込み、取り変える様に大急ぎで財布を取り出したけいこは黒田へくるりと振り返りやや大きめの声でそう言い切ると、さっきまでの刺さるような意識の視線が少し緩和した気がした。
「あらー、お稽古始めたの? 生徒さんの所までいらっしゃるなんてご丁寧な方ねぇ」
そう言いつつ、黒田の目は全く納得はしていない。
「そうなんですよー。定期券忘れてしまったんで、困ってたんですよね! 本当に良い方です!」
「そう……」
では、お昼休み終わっちゃうので私はこれで! と乱暴にロッカーを閉めて無理矢理話を切り上げたけいこは、スタッフルームから逃げ出した。
恐らくこの後更に議論が繰り広げられる事だろう。
そう予想したけいこは、本当はお弁当を持ってきていたにも関わらず近くの喫茶店で予定外の出費をしながらお昼休みを潰すのだった。
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