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「誰にも言って無いのに、あの人本当に目ざといなー。絶対暇でしょ!」
あの後、他の従業員達が数人スタッフルームへ入ってきた為、けいこ達はなりゆきでそのまま仲良く帰路につく事となった。
佐伯曰く、黒田のような人間が苦手な分、あまり他人と関わらない様に見えるけいこの側に居ることが居心地が良かったらしい。
結果、同世代も居ない職場では何か話すとなるとけいこを探してくっついていた訳だ。
「けいこさん、私ね、ここのアルバイト辞めようと思うんです」
「へ?」
佐伯が脈絡も無く唐突にそう口にしたもんだから、けいこは返事すらまともに出来なかった。
「いつも私の話ばっかりでごめんなさい。でもけいこさんには話しておきたくて……」
「え、いや、うん……?」
実の所、酷いとは思うがいつも彼女の話を聞き流していたけいこにはなんの事だかも分からず、しかし一応、真剣な面持ちの彼女に合わせて無理矢理真剣そうな顔で相槌をうつ。
「と言うか、大学も辞めようと思ってて……」
「ちょちょ、ちょっと待って待って。私にそんな、何というか、大事な話していいの?」
アルバイトについてだけならまだしも、とんでもない重大な話を持ちかけられ流石にけいこは動揺で立ち止まってしまった。
「なんて言うか、色んな話聞いて貰ってたけいこさんには、聞いて欲しくて」
照れくさそうに佐伯は答える。
けいこが散々片手間に彼女の話を聞いていた期間、いつの間にそんな関係に発展していたのか。
薄情な事に、けいこには全く覚えが無い。
「それにしても、どうして……」
辞めればいいのに、けいこはつい話の先を促した。
「私、〇〇大学って話したじゃないですか?」
勿論けいこはそんな事聞いたのかもしれないが覚えていなかった。
いやそれよりも、全国でも有数の難関私立大学である事にけいこは絶句してしまった。
「すごいじゃない」
「でも私、大学入る事が目標になってたみたいで、いざ入学してみたら大学で何をすべきなのかが分からなくて……」
自分でも意外なことに、その話し出しに対してけいこは自分と佐伯の分の缶コーヒーを買うと、公園のベンチに座って彼女の話を聞く体勢を整えた。
「授業にはついていけてます。むしろなんだか平坦過ぎて」
驚いた事に佐伯は地頭がいいのか、話を聞いている限り成績は抜群に良かった。
確かに業務中も要領が良すぎてサボっていると思われる事すらあるなとけいこは思い返す。
「単位は教えられた事やればすぐ取れるじゃないですか? でも結局私は大学でやってる事それだけみたいになってて」
何とも贅沢な悩みである。
全国の勉学に嘆く学生達に聞かせたら暴動が起こるわ。とけいこは大袈裟に思う。
「有難い事に私の家、裕福な方だと思うんです」
いきなりマウントを取られた。
が、当然佐伯にそんなつもりは無い。
「だから、アルバイトなんてしなくていいって親からは言われてたんですけど、大学だけで納得いかないなら違う世界へ行かないと何も変わらないと思って、とりあえず近場だった〇〇スーパーでアルバイト始めたんです」
「違う場所……」
今までなら若い子の考える事が分からないと思っていただろう。また聞き流していたかもしれない。
しかし、正に違う世界に片足を突っ込んだばかりのけいこには佐伯の若さに高ぶる言葉が胸をやけに揺さぶった。
「今しか出来ない事、今しなくちゃいけない事。それから、これからいつでも出来る事。それをはっきりさせたくて」
若いのに、小難しい事を考えてるなとけいこは感心していた。
自分は同じ歳の頃、目の前の事に精一杯でこんな人生単位で自分の行動を考えていただろうか。
佐伯の話に、少しずつけいこの視野が広がってくる。
「それで、私の場合今大学で学んでいる事は意欲出してちょっと工夫すればいつでも出来るタイプだと思ったんです」
「そんな気がするわ」
相槌しかうっていなかったけいこは下手をすれば嫌味とも取れる佐伯の言葉に対して初めて同調を口に出した。
「けいこさんもそう思ってくれますか?」
「うーん。そうね。その時々の状況もあるし決して断定はしないけど……あなたはその気があればやりそう」
けいこは無意識に微笑んでいた。
そんな表情を見て、佐伯も少し安堵した顔で応える。
「私今専攻経営学なんです。ただ、大学でも情報は入ってくるとは言えカリキュラムこなしてる間に大学の外ではどんどん新しいシステムが生まれては更に進化して行ってるし、経営ってつくづくナマモノだなって思えば思うほど、もう読み切ったテキストや論文について机に向かってる時間が落ち着かなくて」
当たり前の様にテキストや論文を読み切ったと言う佐伯に、けいこは自分の短大時代を重ねてまた舌を巻いた。
最近の子って当たり前の事なのかしら?私はあんなにレポートで痛い目にあったのに。
その後も佐伯はけいこにも分かるように自分が何に悩んでいるかをひとつひとつ言葉を選んで説明してくれた。
ただ闇雲に理想を追いかけている様でいて現実的な目線とも向き合い、その中で生まれた行き場を失った熱意が折り重なる話。
聞いているけいこも、つられて何年ぶりか分からないときめきのようなものを感じて、聞き逃さんとばかりに佐伯の話に耳を傾けた。
「大学へ行きながら会社を建てる子もいるんですけど、私の場合そもそも世間を知らなかったなって思う事も多くて。一旦現場で……現場の人達を見て、何て言うか、こう思った〝今〟がこの人生で一番若い時なんですし、したくないけど失敗も出来る内に沢山しておかなくちゃって」
今この瞬間が人生で一番若い時とは、なんと都合良く、素敵な言葉だろうか。
既に充分若い時を生きる二十代前半の女の子の内に秘めたるエネルギーはさぞ膨大に膨れ上がっていることだろう。
そして、空っぽだったけいこにとっていざ向き合うとそのエネルギーの余波は凄まじく、自分にもそれによく似たエネルギーが燻る感覚に陥る。
「すみません、一気に話ちゃって。ずっと考えてたんですけど、こうして口にしたら決心がつきました」
「私こそ、いい話が聞けたわ。一生懸命な佐伯さん見てたらちょっと感動したもの」
佐伯は晴れ晴れとした顔で、もうほぼ飲み切っていた缶コーヒーを真っ逆さまにして残りの数滴をズズっと啜った。
本来大人なら助言をしたり、引き止めるのが正解だったのだろうか。
しかし、けいこはそんな言葉を知識的にも持ち合わせていなかったし、ただただ相槌を打っていただけだ。
学費が勿体ないとか、親御さんの気持ちは?なんてのは思い浮かんだが、この話の中では野暮な言葉だとも思った。
別に無責任に話を聞いていた訳では無い。
けいこは気づけば大人と言う立場ではなく、ただのひとりの人間として話を聞いていただけの事だ。
そして実際、その聞きっぱなしなけいこの態度が、出会った頃から佐伯と言う人間には必要だった。
皆が皆、彼女の様にいく訳では無い。
しかし彼女の人生は彼女のもので、もう一度大学へ行った方が良いと判断したら佐伯の場合は自力で行くのだろう。
〝その時〟が彼女の人生で一番若く何でも出来る瞬間なのだから。
それから二ヶ月も経たずして、佐伯はけいこのパート先を辞める。
その後彼女がマーケティング関係の職場に就職するのにそんなに時間はかからなかった。
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