竹の花の咲く頃に

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 思わず振り返ると、必死に駆けてきたのだろう、息を乱した人がそこに立っていた。  夕暮れの光の中で、誰かを認めた誉司(たかし)は叫んでいた。 「――美奈(みな)!」  声が震える。 「何でここにいるんだ! もう日が暮れる、早く村を出ろ!」    真っ直ぐな眼で自分を見つめると 「たかちゃんが、贄なの?」  と美奈が問いかける。 「急にみんな村を出るようにって言われて」  ぜいぜいと息を吐きながら彼女は必死に語る。 「でも、たかちゃんがどこにもいないから、私、心配になって。おじさんに聞いても、何も教えてくれないから――だから私解ったの。たかちゃんが贄だって」  誉司の視線が落ちる。  誰が贄なのか。  長老と両親以外知らない。他言も許されなかった。だから、美奈に何も伝えられていない。それでいいような気がしたのだ。知れば美奈は嘆き悲しむ。  そう思って沈黙し続けていた。  なのに美奈は気づいてしまった。  もう時間がない。説得する気持ちで顔をあげると 「そうだ、美奈。だから、お前は早く逃げろ」  と、誉司は告げた。 「嫌だよ、たかちゃん」  信じられないほどあっさりと、美奈は言い切った。 「私も一緒に残る」  驚きに息が止まる。 「っ、ばかなことを言うな! 贄は一人でいい!」 「嫌だよ、たかちゃん! 大きくなったら、お嫁さんにしてくれるって約束したじゃない! 筒井筒だって、言ってくれたじゃない!」   筒井つの 井筒にかけし まろがたけ  過ぎにけらしな 妹見ざるまに    古典で筒井筒という言葉を習った時、自分と美奈のようだと思った日が蘇る。  幼馴染の一つ下の子は、いつの間にか自分の一番大切な女性になっていた。  贄を引き受けたのは――  もし断った時、美奈が選ばれたらどうしようと、ただ、そう思ったからだった。  美奈が贄となるぐらいなら、自分が魔物に喰らわれた方がいい。  そう思えるほど、彼女が愛しかった。 「俺は贄に選ばれた。贄は一人でいい」  誉司はぶっきらぼうに告げた。 「早く村を出ろ。もう日が沈む」  茜の色が、川を染めている。まるで血が流れているようだ。昔、実際にこの川は魔物によって赤く色を変えていたという。  その魔物を食い止めるために、どうしても必要な犠牲。  その役目を自分は果たすしかない。 「約束を守れなくて、すまなかった、美奈。お前は、幸せになってくれ」  喉の奥に言葉が詰まる。  それでも何とか言い切った誉司(たかし)の側に、美奈が歩を進めてきた。 「聞いていなかったのか、村を出ろ!」 「どうして?」 「贄になりたいのか!」 「違うよ、たかちゃん。私はたかちゃんと離れたくないだけ」  さらに一歩進めた美奈の身体が、誉司に触れた。 「たかちゃんが贄になるなら、私も一緒にいるよ」  そして顔を上げて誉司を見つめると、柔らかく微笑んだ。 「二人なら、きっと恐くないよ」 「――っ、俺が……俺が何のために、贄を受けたと思うんだ! 美奈を犠牲にしたくなかったから!」 「解っているよ、たかちゃん」  温もりが触れる。 「ごめんね。でも、たった一度のわがままを言わせて」  美奈が甘えるように頬を肩にすり寄せた。 「最後の時まで、たかちゃんの側にいたい」
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