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日も陰り、街が闇に包まれようとするその間際。
空は今日一番で、最も艶やかな茜色を見せている。
それはわたしが “女” でいられる最後の時間を、鮮やかに演出してくれているようでもあり、
色を失うこの先の時間に、足掻き抗っているようにも見えた。
こんな黄昏時の語源は、
──誰ぞ彼──
夕闇によって視覚が霞み、人の顔を認識し難いことから起こったそうだけど、もちろん今のわたしは、目の前にいる彼の顔が見えないわけじゃない。
面識だって何度かあるのに、急に改まったその真顔を、──誰ぞ彼──と問いながら見上げている。
年は32才と言っていたけど、本当のところはどうだかわからない。
名前だってわたしと同じく、偽名である可能性が高いんだから、住んでる場所やどんな仕事をしているかも知るはずがない。
──誰ぞ彼──
そう、あなたは、誰でもない男。
たかが出会い系で、たまたまマッチングした快楽だけの関係なんだから、お互いそれ以上には踏み込まない約束だったのに。
何を思ったのかこの男、急に真面目くさった顔で、わたしに「抱きしめさせて欲しい」とか言い出したんだ。
今までの乾いた関係に、突然情的な湿りを感じた気がして、わたしは少し困惑していた。
勘違いしないで欲しい。
わたしも、あなたの誰でもない。
たとえ体を許したって、恋人ごっこなんかするつもりはないし、やることはやったんだから、さっさとわたしを解放して欲しい。
「ごめんなさい、そろそろ主人が帰って来る頃だから。
わたし、行かなくちゃ」
「頼むよ……少しだけでいいんだ……」
「だってほら、暗くなってきたって言っても、こんな外じゃ誰が見てるかもわからないし……」
「きみの事を気にもとめないような旦那が、そんなに気になるのか?
あと5分でいいんだ、もう少しだけ、旦那の事は忘れてくれないか」
「じゃあ……1分だけ」
いつになく頑なな彼の眼差しに圧され、わたしは仕方なしに身を委ねた。
こんな爛れた女に、今さら何を求めたいのだろうか。
どんな形であれ、女として求めてもらえるだけ、まだあの人よりもマシなのかもしれないけど。
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