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「やっぱり、あの人のところに行こうとおもうんだよね」
全国チェーンの居酒屋で彼女がジョッキで来たレモンサワーを煽りながら言った。
何となく、そうするだろうなと言う予感はあったので、そう聞かされても、大して驚きはしなかった。
「ふぅん……」
「なんだよその反応はー」
「いやぁ、やっぱり、って思って」
ああ、でもとりあえず理由ぐらいは聞いた方がいいか。訊ねてみる。彼女は答えた。
「あのさぁ、このままだとさぁ、あたし別の人と付き合っちゃいそうじゃん?何年かしたら。だからさぁ、もういっそ行っちゃえーって」
「別れたってのによくやるねぇ」
俺の苦笑いに、彼女は軟骨の唐揚げをつまんで自分の口の中に放り込んだ。
「だってあたしは全然納得してないし、あの人だって全部納得してたわけじゃないでしょ」
「そりゃあ、まあ」
それどころか、彼女の前でカッコつけてただけで本当は未練タラタラだった。大人げなく、別れたくないと泣き叫んでいた。
アイツとは長い付き合いだったけど、あそこまで取り乱した姿は初めて見た。
仕方のないことだったとは言え、両者とも別れに不満を持っていたのだ。
「親とかには話したの?」
「えー、話さないよ。許してくれるわけないじゃん。それどころか考え直せとか言われて家に閉じ込められそう」
「まあ、1人娘がそんなこと言い出したら、普通は止めるよな」
「でもさー、1人で準備するにはちょっとね。だからさ、手伝ってよ。準備だけでいいから」
飲んでたビールむせた。
「やだよ、そんなん。バレたらそっちの両親にも、俺の両親にもメチャクチャ怒られる」
「お願い!アンタにしか頼めないんだもん!」
顔の前で手を合わせる彼女。
「手伝ってよー、相談に乗るだけでいいからー。あっ、ここ奢ってあげるよ!それとほっぺにキスしてあげる」
「いらねえよ、そんなん……」
アイツの彼女として知り合ったから手を出さなかっただけで、いいなとは思っていたから、内心ちょっと揺らいだ。
それだけじゃない。2人がどれだけお互いを大事にしていたかも見ている。
「…………明後日」
「ん?」
「明後日、忘れずに連絡してきたら協力してもいい」
「何その明後日って」
「酔っ払いの戯言かもしれないだろ」
「こんなサワー1杯ごときで酔っ払うわけないしー!」
アンタの覚悟を試してんだよ。そう言おうとして、やめた。ジョッキを置いた彼女は真剣な表情を見せていた。
「……わかった。明後日ね」
潔く身を隠したアイツの元へ押しかけると言うことは、今の生活を全て捨てるということだ。彼女がその重さに気付いていないわけがない。皆まで言わずとも分かってくれたのだろう。
その日はそれで別れた。
翌々日、『一昨日の約束覚えてる?』という連絡が来て、約束は果たされることになったのだった。
***
連絡が来た次の週末。喫茶店の隅のテーブルで、諸々の資料を広げる。
「まずアンタがするべきは、部屋の片付けだ。分かってると思うけど、行ったらもうこっちには帰っては来れないからな。見られたくないもんとか、そういうのは全部処分しておかなきゃいけない」
「OK」
「それと、むこうに行く手段を決めなきゃいけない。下手なもん選べば止められちまうからな」
「うん」
「あと絶対に誤解なく伝えておきたいことは手紙として残しておいてくれ」
あとは、アレとコレとソレとー、と伝えていくと説明が終わった頃には彼女はグッタリしていた。
テーブルの端に追いやられたアイスティーは氷を小さくし、結露を足元に溜め込んでいる。
「……やることいっぱいじゃん……頭パンクしそう……」
「やめるか?」
「…………」
彼女は険しい顔を見せる。少し悩んで、首を横に振った。
「ううん、やる」
「ToDoリストにしてやろうか?」
「それも、自分でやる」
「そうか」
思い直してはくれないんだな。
一生懸命ノートに準備すべきことを書きつけていく彼女の姿を見て、それから窓の外を眺めた。ビルの間から見える空は、忌々しいほどに爽やかな快晴だった。
***
あの日、喫茶店で作った計画をしっかり着実にこなした彼女は、段々と美しくなっていった。
「部屋片付けてさ、人間関係もすっきりさせて、仕事もちゃんと引き継ぎして辞められた。そしたらね、すごく気分いいの」
あの日、計画を立てたとき雑然としていた喫茶店のテーブルは、今は彼女の飲むアイスティーと、新幹線の切符しか乗っていない。
旅支度の済んだ彼女の表情は、恋する乙女のそれだった。
「ようやく、あの人に会える」
「それがね、すごく嬉しい」
残ってはくれないのか。そう言いたいのを飲み込む。ここまで美しいのだから、きっとこれだけが正解なのだ。
「これ。伝えたいことの手紙。アンタ用。必要ないかなと思ったけどさ、やっぱり渡したくて」
「うん」
「ありがとね、ずっと手伝ってくれて。ずっと、やめてもいいんだって言い続けてくれて。他でもないアンタに言われたから、ちゃんと悩めた。ちゃんと考えられた。でも毎回、どうしてもあの人のとこに行きたくて、行きたくて、仕方なくてさ」
「ちゃんと会えるといいな」
「会うよ。絶対に見つけて会う」
アイスティーはストローに吸い込まれて消えた。カラリと氷が鳴る。
「……あとのこと、よろしくね」
「……任せろ」
会計を済ませて、去ろうとする彼女に追いついて告げる。
「もしも、もしもさ。連絡できるようなら、いつでも連絡してくれよ。兄貴と一緒に」
彼女は笑った。
「きっと、するね」
そう言って、駅の雑踏に紛れていった。
***
病死した兄貴の元へ行くと言う彼女の遺書は、その翌日に届いたらしい。
崖から海へ飛び降りた彼女の遺体は、そう傷まない内に浜辺に打ち上げられた。警察から連絡が来て、最後に会ったのが俺だということが調べられて、事情聴取を受けたけれど、普段通りの様子だったと告げた。そう言う約束だった。
そうは言っても、やっぱり彼女の両親から激しく責められた。どうして気付いてくれなかった、どうして止めてくれなかったと泣かれ、殴られた。自分の両親が泣きながら平謝りしている姿は見てられなかった。
自室に戻って、俺宛ての遺書を初めて開けた。便箋は2枚。1枚目には協力に感謝を告げる言葉があった。
「アンタのせいで殴られたよ」
そう言って、2枚目の便箋を見た。
便箋の中心に1つだけ、最期につけていた口紅のキスマーク。
『ほっぺにキスしてあげる』
そう言われたのはいつだったか。
「………いらねえよ、そんなん……」
震える声で呟いた。
そうして、俺は泣いた。
この涙が、止められなかった罪悪感によるものなのか、もう二度と会えない喪失感によるものなのか、それともただ単純な失恋によるものなのか、分からないまま。
子供のように。病室で見た兄貴のように。喉が裂けるほど、大声で。
俺は泣き叫び続けた。
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