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 見渡した景色は、今日も安定の「灰色」だった。  このオフィスビル街に通って、もうじき3年になる。 「早いものだ」  そう呟いた(あかつき)の声は、オフィスビル街を通り抜ける強い風にかき消された。  暁が表参道から歩いて数分の、いくらか名の売れたクリエーターの個人事務所に運良く採用されたのは、まさに運だった。  そのクリエーターが講師を勤める広告学校で、いささか目立つパフォーマンスをして、コテンパンに潰された。  それから心を入れ替えて一心不乱に課題に取り組んでいたら、なぜか気に入られて大学卒業と同時に見習い枠に入れてもらえた。  転機が訪れたのは、わずか2年後。  最初に任された小さなキャンペーンで、まさかの新人賞。  あとはとんとん拍子に図に乗って、怒り心頭の師匠の事務所を放り出された。    知り合いの知り合いの、もう知り合いでも何でもないくらいのうっすい縁を頼って、中堅の企業の企画宣伝部に潜り込めたのは、今日みたいに風の強い日だった。 「人生の運、全部使っちゃったかな」  見習い枠に入れたのだって奇跡に近かったし、新人賞はまさに分不相応の奇跡、その灯みたいな実績を買われてこの会社に入れたのだって、人生の大吉だ。  調子に乗って落ちて、また懲りずに調子に乗って自滅。我ながら学習しないジェットコースター人生だと、暁は自嘲気味(じちょうぎみ)に口の()(ゆが)める。  打合せが思いのほか早く終わって、そのままオフィスに戻る気がしなくて、暁は隠れ家的に利用している古い喫茶店へ足を向けた。  細い路地を抜けたところにある喫茶店は、不愛想なマスターと不機嫌なマダムがふたりでやっている小さな店だが、コーヒーは旨い。 「キリマン」  メニューも見ずにそう告げると、痩せぎすのマダムが、無言で水とおしぼりを置いて行った。  やがて運ばれてきた旨いコーヒーをブラックで飲む。  ふぅ、とらしくないため息をついて、壁のマガジンラックを見ると古い旅行雑誌の表紙が目に入った。 「旅行か。…だいぶ行ってないな」  やりたい仕事ではない。  かつての様に、自らからアイデアを絞ってチームで喧々諤々検討し、クライアントに提案して、何度もダメ出しをくらって、己に腹を立てては苦しみぬく。 だけど、皆で創りあげたそれが日の目を見たときの喜びは言い表しようがない。  細胞の一つひとつが沸騰して、背筋がぞくぞくするあの感覚、何日もの徹夜による睡眠不足と疲労がむしろ心地よかった。  いまは、ジャッジする側だ。  提案された企画を、その裏にある苦労に気づかないふりをして却下する。  つい、「俺ならもっと」と考えてしまう。  もし俺に人生の運が残っているのなら、いや残っていなくても、このままではダメだ。  何かを変える手段が、「旅」だなんて笑わせる。  旅程度で人生は変わらない。  旅程度で変わる人生なんて、A4ペラの企画書だ。  簡単に破けて、オフィスビルの谷間に飛ばされていく。  それでも。  と暁は思った。  「遠くへ」  心のどこかで、暁を誘う風の声がする。  乗ってみるのも悪くない、どうせ俺の人生はいつだって風次第なのだ。  古いコーヒーの旨い喫茶店を出ると、暁は初めて「有給休暇願」を会社に提出した。
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