3

1/1
前へ
/5ページ
次へ

3

 「旨い、これ、なんですか。口の中にぴりぴりする…」  「酵母だよ。原酒は酵母が生きている。ぴりぴりするのは、酵母が酒飲みに挨拶してるんだ」  夕花の祖父だという人が、そう教えてくれる。  一見いかつい職人肌に見えるが、酒の話になると相好(そうごう)を崩した。  「原酒…」  「原酒は蔵元でしか飲めないお酒なんです」  夕花がそうつけ加える。  「旨い…」  本心からそう思って、暁は少し度数の強い原酒をまた一口飲んだ。  その夜は、なぜか夕花の家でご馳走になった。  酒に強い暁でなければ、ホテルへの足取りがおぼつかなくなっただろうくらいに。  大学を卒業していったんは東京の企業に就職した夕花が地元に戻ったのは、父親が病で倒れたからだ。  現在も療養中だとかで、夕食の席には姿を見せなかった。  職人肌の祖父はいまだ健在だが、次を継ぐ者を決めておかないと、と言う話が急遽(きゅうきょ)持ち上がった。  夕花には一つ下の弟がいる。  大学を卒業して希望通りの企業に就職が決まり、将来は海外赴任を夢見ていた。  「頼りないけど、あたしが継ぐことにしたんです」  「夕花というより、継いでくれる婿養子をいま探している」  酔いが回った祖父が、そんな事情まで口を滑らせた。  「旨い、この酒は本当に旨い」  心の底からそう言った暁に、祖父は嬉しそうに酒をすすめた。  暁がほぼ毎週末、十久酒造に通うようになって1年半が過ぎた。  今日はいつもと違って、スーツとネクタイ姿だ。  居並んだ祖父、少し体調がよくなったという父、夕花に似た優し気な母の前で、暁は両手を畳につき、深々と頭を下げた。 「申し訳ありません。夕花さんのお腹の中には、私の子供がいます。責任を取らせて下さい」  隣に正座した夕花も、畳に頭を擦り付けるようにしているのがわかる。 「ごめんなさい。でも…」  夕花の声が震えている。  かわいそうに、夕花は暁がなぜ避妊しているフリをしていたかを知らない。    夕花の妊娠に関して、暁は確信犯だ。  それを切り札に強引に婿養子となることを、夕花の家族はもちろん自分の家族にも認めさせようという計画だ。  自分が決して清廉潔白な性質でないのは、誰よりも知っている。  むしろ策士(さくし)だという自覚すらある。  「でも、婿養子になってくれるという人が…」  夕花の母がおろおろしている。  「私が、いや、私ではダメでしょうか?」  暁は畳に頭を擦り付けたまま、言った。  「ふっ」  と頭上で笑う声がした気がして、暁は頭を上げた。  そして、夕花の祖父と目が合った。  その目を見て、暁は確信した。  ああ、自分の策略は、この人だけにはバレている。  
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加