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《あなたのことわすれます》
首からプラカードを提げた娘が一人、橋のまん中に立っている。
橋を行く人々は興味なさげに娘の前を通り過ぎる。
ビジネスバッグを抱えた紳士。パラソルを開いた淑女。ランドセルを背負った子供たち。エトセトラエトセトラ。
娘は立っている。
忘れるべき《あなた》を求めて。
「なあ、なあ! こんなことしても、あんたは俺のこと、俺のしたこと! わすれてくれるんだろ!? なあ!」
娘は両の手首を金属の輪に戒められ敷布の上に横たわる。頬は紫に変色し、その口元から真紅がこぼれる。
男は手にした九連の鞭を扱き、舌なめずりして娘に負い被さる。
「忘れてくれよ、忘れておくれよ。俺のことなど、知らなかったことにしてくれ」
鞭がしなる。
紳士の手は娘の首にかかる。
「忘れてくれるんだろうね」
紳士は娘の下肢を抱え込む。
「私のことを、すべて忘れてくれるんだろうね」
娘は言葉を発しない。身じろぎ一つ返さない。
紳士は娘の口に右手を差し込み、その舌を掴み引き出す。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」
娘は涎をたらす。しかしびくとも動かない。
紳士は娘の舌を離さない。
「嘘つきは舌を抜かれるよ」
その男は鋏を持ち娘に近づく。
娘は静かに静かにベッドに腰かけたまま。
男は娘の膝を割り、娘のおとがいに手をかける。娘はされるがまま顎を上げる。
その白い白い喉が男の前に晒される。
「君は僕のこと、忘れてしまうんだろ?」
娘の目は男の顔に向けられて、しかし男を見てはいない。
「君が忘れてくれるなら、僕はなんでもしていいんだね」
男の手にした鋏は鈍い輝きをはなつ。
「すべて忘れておくれ」
男は娘の首に手をかける。
その鋏が、背中まで垂れた少女の髪を一房切り取る。
「ああ、いい髪だ」
男は切り取った娘の髪に口付ける。
娘のまぶたがぶっくりと紫色に腫れている。
男は血だらけの拳を振り上げ、はあはあと荒い息を吐く。
「忘れろ。忘れてしまえ、俺のことなど!」
男の拳が少女の頬を打つ。少女の体がベッドに舞う。
「忘れてしまえ。忘れてしまえ!」
男は呪いの言葉のように同じ言葉を繰り返し、そのたびに娘の肌を紫に染める。
娘は何も発さず、その目は宙を見つめ続ける。
橋のまん中。
紫色に膨れ上がった娘はプラカードを胸に下げ、そこに立っている。
ふと、新聞配達の少年が、自転車のブレーキをキーと鳴らして立ち止まる。その幼い手を伸ばし、娘の腫れあがった紫の頬に触れようとする。
「だめだよ」
かけられた声に少年は振り返る。
白いティーシャツを着た青年が少年の手を握り、止めた。
「彼女に触れたら、だめだよ」
その目をじっと見つめられ、少年は身震いをして橋の向こうへ駆け去った。
残された青年は娘の頬に手を当て、その紫に変色した皮膚をそっと撫でた。
娘は皮膚を動かすことすらせず、ただじっと虚空を見つめていた。
「君がなにもかも忘れてしまっても」
青年は娘の髪をさらりと梳いた。
「僕は君を忘れないよ」
青年は強く少女を抱きしめた。
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