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「教授……。彼は私達の手の届かない闇へ堕ちたのです」
「佳澄は泣けない子なんだ。自分の感情を上手く処理できない。私が手を指し伸ばしてやらないと、どこへ行っていいかもわからないんだ。早く助けないと手遅れになる。あの宝石のような子が……」
泣いているのは澤田の方ではないのか。
そんな言葉を飲み込んだ。
佳澄がここまで大胆な行動をするとは、正直考えもしなかったし、そこまで駆り立てる、彼の激情を吉本は見誤った。だけど佳澄は、思いもよらない勢いで、それはまるで命を賭けた逃避行のように、5階の部屋から逃げ出したのだ。
割れた窓ガラス。崩れ落ちた壁の配管。人並み以下であろう彼の運動能力を考えた時、火事場の馬鹿力というには、あまりにも現実的ではない光景を見た。熱に浮かされたように、佳澄は本来の自分の世界を捨てて、堕ちていった。それこそ死を覚悟して。
哲郎の勝ち誇った顔は、苦々しくもあでやかだった。軽々と佳澄を抱えあげ、取り戻したとばかりにほくそ笑んだ。悔しさや敗北感よりも、確かにあの男には惹きつけられるモノがあると思い知ったのだ。研究ばかりで世間を知らない佳澄が、我を忘れてのめり込む何かが。
「佳澄を救いだしてやってくれ吉本君。頼む……」
堪え切れずに澤田の手は震える。
一旦闇と関わった者が、再びまた光を見る事がどれだけ難しいか、常に脚光を浴びている澤田には、理解はできないだろう。だがこの男、水谷澪は凄まじい修羅場をくぐって闇から這い上がった。そこに希望があるのかもしれない。
雲間の薄日のように微かな光ではあるけれど。
「出来る限りの事はしてみます。ですが教授。これは蜘蛛の糸を掴むような僅かな可能性です。水谷澪は、おそらく大変な思いをして今の平穏を掴み取ったはず。彼は関わりを拒絶するでしょう」
美しい男だ。
霞が関での噂話や報告書に上がってくる、信じられない経歴を見るにつけ、よく生き延びていられたと思う。だが悪い話しばかりではなかった。ひそひそと噂話しをする悪意の端々に、羨望と嫉妬がない交ぜになっている。
「そっとしておいてやれよ」と言う者もいた。彼はいつも寂しそうだった。支えてやりたくて、つい手を差し伸べたくなるほどに……と。
彼が沢渡哲郎の銃弾を受け、生死を彷徨った時、多くの献血志願者が霞が関から集まったと言う。
魔性ではあったが悪魔ではなかった。近づきたくはなかったが、見守ってみたかった。この伏魔殿とも言うべき籠城の霞が関で、彼は……いや彼らは、爪の先に血を滲ませて這い上がったたのだから。
「君に……任せる……」
見たくも無いとばかりに報告書を吉本に投げ渡し、病室を出て行く後ろ姿は憐れなようでも、一歩外へ出たら澤田は日本の生命科学界の偉人だ。おいそれと近づくのもはばかられる。
彼はきっと胸を張り、にこやかにほほ笑んで病院を後にするだろう。センターへ立ち寄って、留守中の研究員たちの労をねぎらい、待ちかまえていた人達に囲まれて、また日々忙しく動きまわるだろう。
そんな中でふと、独りになった時に彼は佳澄を思い出し、その手に触れられない肌を想って、年甲斐もないと笑いながら寂しく胸を軋ませるのだ。
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