ー31ー

2/7
前へ
/236ページ
次へ
 確かに愛人は他にもいる。それは佳澄も承知の上だ。  佳澄は哲郎の愛人になった。結婚するわけでも、パートナーシップを組んだわけでもない。哲郎の体を慰める存在に、自ら堕ちたのだ。哲郎のそばにいたいという欲求のためだけに。  だが哲郎にとって、佳澄は特別な存在だと、加藤は確信している。居場所を撹乱するための別宅や隠れ家はいくつもあるが、一番思い入れがあるのは、古く堅牢な造りをしているこのマンションの一室だ。どっしりとした落ち着きはあるが、決して、特別大きくも広くもない。  哲郎は昔からそんな所がある。質素と言うわけではなく、徹底して自分の好みを追求して妥協しない空間を作りたがる。派手さよりも生活の質を重んじるのだ。  ここは中庭の緑も深く、外部から隔絶された静かさがあり、マンション自体を買い上げているので、静かに暮らすにはうってつけの場所だった。重厚な室内と、シンプルで飾り気のない空間は、哲郎そのもののようだ。  居心地がいいと感じるか、重苦しさを落ち着かないと感じるか。だから、雰囲気に敏感で、自分の好みを優先させるたがる女はこの部屋には連れて来ない。  澪と佳澄。  ここに居て、哲郎のテリトリーに深く入り込んだのはこの二人だけ。二人とも男であると同時に、生活感の乏しい感性を持っているのも共通している。面白いくらいに自分の身の回りに感心がないのも、似過ぎていて怖ろしいくらいだ。  彼らは哲郎を取り巻く環境も哲郎の一部だと感じているのか、この部屋にとてもよく馴染んだ。ハッとするような美しさを持ちながらシンプルな二人だ。彼らもまた、哲郎の趣味の一つなのかもしれない。  佳澄は自信なさげに俯くけれど、選ばれてここに居る。だけど、いくら説明しても「みお」という言葉が出た途端に眉を寄せる。佳澄にとって澪はライバルといういうよりも、哲郎を深く浸食した許せない男だとでも思っているらしい。  身代わりにされているのも気分が悪いと言いたげに。綺麗な顔でそんな表情をする。わがままな所も澪にそっくりだと、言えばもっと不機嫌になるだろう。  声が途切れたのに気づいて、佳澄がふいに顔を上げた。緊張感のない視線がとぼけたように彷徨うので、加藤は何度目かの肩を落とす。 「佳澄ちゃんよぉ、ヤクザの仕組みを教えてくれって言ったのあんただぜぇ? 聞く気あんの? 眠いなら寝ろよ」 「いえ、睡眠は充分足りています。加藤さんの声が気持ちよくてつい……」 「子守歌をうたってんじゃねぇんだよ。あんたわかってねぇだろうが、今うちは大変なの。組長の胸三寸で関東の裏社会の勢力図が変わろうとしてんの。もう少し緊張しろってのよ」 「わたしが緊張した所で何の役にもたたないと思います」 「そりゃそうだけどよ」 「ヤクザ社会のことはよくわかりませんが、あの人が忙しいのはわかりました。加藤さんに愚痴を言ってもしょうがないようですね」 「そういうこった。いい子にしてな。飼い猫みたいにな。そうすりゃいつでも頭を撫でてもらえるさ」 「わたしは人間です」 「うるせぇよもう。大人しくしてろっての」 「はい……」
/236ページ

最初のコメントを投稿しよう!

628人が本棚に入れています
本棚に追加