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確かに愛人は他にもいる。それは佳澄も承知の上だ。
佳澄は哲郎の愛人になった。結婚するわけでも、パートナーシップを組んだわけでもない。哲郎の体を慰める存在に、自ら堕ちたのだ。哲郎のそばにいたいという欲求のためだけに。
だが哲郎にとって、佳澄は特別な存在だと、加藤は確信している。居場所を撹乱するための別宅や隠れ家はいくつもあるが、一番思い入れがあるのは、古く堅牢な造りをしているこのマンションの一室だ。どっしりとした落ち着きはあるが、決して、特別大きくも広くもない。
哲郎は昔からそんな所がある。質素と言うわけではなく、徹底して自分の好みを追求して妥協しない空間を作りたがる。派手さよりも生活の質を重んじるのだ。
ここは中庭の緑も深く、外部から隔絶された静かさがあり、マンション自体を買い上げているので、静かに暮らすにはうってつけの場所だった。重厚な室内と、シンプルで飾り気のない空間は、哲郎そのもののようだ。
居心地がいいと感じるか、重苦しさを落ち着かないと感じるか。だから、雰囲気に敏感で、自分の好みを優先させるたがる女はこの部屋には連れて来ない。
澪と佳澄。
ここに居て、哲郎のテリトリーに深く入り込んだのはこの二人だけ。二人とも男であると同時に、生活感の乏しい感性を持っているのも共通している。面白いくらいに自分の身の回りに感心がないのも、似過ぎていて怖ろしいくらいだ。
彼らは哲郎を取り巻く環境も哲郎の一部だと感じているのか、この部屋にとてもよく馴染んだ。ハッとするような美しさを持ちながらシンプルな二人だ。彼らもまた、哲郎の趣味の一つなのかもしれない。
佳澄は自信なさげに俯くけれど、選ばれてここに居る。だけど、いくら説明しても「みお」という言葉が出た途端に眉を寄せる。佳澄にとって澪はライバルといういうよりも、哲郎を深く浸食した許せない男だとでも思っているらしい。
身代わりにされているのも気分が悪いと言いたげに。綺麗な顔でそんな表情をする。わがままな所も澪にそっくりだと、言えばもっと不機嫌になるだろう。
声が途切れたのに気づいて、佳澄がふいに顔を上げた。緊張感のない視線がとぼけたように彷徨うので、加藤は何度目かの肩を落とす。
「佳澄ちゃんよぉ、ヤクザの仕組みを教えてくれって言ったのあんただぜぇ? 聞く気あんの? 眠いなら寝ろよ」
「いえ、睡眠は充分足りています。加藤さんの声が気持ちよくてつい……」
「子守歌をうたってんじゃねぇんだよ。あんたわかってねぇだろうが、今うちは大変なの。組長の胸三寸で関東の裏社会の勢力図が変わろうとしてんの。もう少し緊張しろってのよ」
「わたしが緊張した所で何の役にもたたないと思います」
「そりゃそうだけどよ」
「ヤクザ社会のことはよくわかりませんが、あの人が忙しいのはわかりました。加藤さんに愚痴を言ってもしょうがないようですね」
「そういうこった。いい子にしてな。飼い猫みたいにな。そうすりゃいつでも頭を撫でてもらえるさ」
「わたしは人間です」
「うるせぇよもう。大人しくしてろっての」
「はい……」
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