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「笑うだろう? 澪さんはとっくにふっ切っているのに、なんてあいつは女々しいんだろうね。まあその人とも色々あったわけだけど、これはもう澪さんに話すつもりはないよ。君は過去を立ち切るために生き返ったんだ。今の恋人のためにね。違うかい?」
その通りだと言うように、澪は握手した手を強く握り返した。
もう会わないでおこう。この綺麗な男に。惑わされないように。彼が迷わないように。今ある道から外れないように。
「帰りなさい。君のいる世界へ」
そこには澪の欲しがった平凡な日常があるだろう。それを心から望んで手に入れたのだ。もう、戻ってきてはいけない。
多くの想いを込めて、坂下も握り返した。
こんな別れがあってもいい。
「ここではないどこかでもし出会えたら、その時はまた、積もる話でもしようじゃないか」
「はい。是非に」
偶然出会う可能性は無いに等しい。それでも、どこかで君を想う者がいると、知っていてもらえたらいい。
ここは場末のバーだ。迷った者が流れ着く所。もう君の居場所じゃない。
軽く会釈をして出ていく澪の顔に、明るい西日がかかる。光に迎えられるその姿が嬉しかった。
本当に。
バーテンダーになって、一番嬉しい瞬間だったかもしれない。
「あの……」
外へ出かかった足を止めて、澪がひょいと振り返った。
名残を惜しむのではなく、ほんの気まぐれのように。
「その、ぼくに似ている人はどれくらい似てるのでしょう?」
「そうだね。彼は癖毛だけど、驚くほど澪さんに似ているよ。顔も背格好も。並べてみたいくらいだ」
澪はしばらく何かを考えあぐね、子供のように首を傾げて、悪戯っぽく笑いながら言った。
「もしかしたら、東吾さんの落とし種かもしれませんね。ぼくみたいに」
爆弾を投下されたように、坂下の頭は一瞬真っ白になり、動けないそのすきに、澪は光の中へ出ていった。追いかけて、何かを問おうと気持ちが焦るのに、澪の言葉の呪縛に縫いとめられた体が動かない。
呼びとめて聞く言葉など持ち合わせてはいない。自分は彼らを巡る物語の外側にいる。バーテンダーはカウンターを超えてはいけないのだ。
店内に差し込む西日の中に、澪の影が映る。
淡く揺れて、消えていく。
坂下は、去っていく澪のかすかな足音を聞きながら、「ドアを閉めなければ」と、呟いた。
夜が来る。
あの男が来る。
夜の帳を支配するために。
早く、扉を閉めなければ。
美しい男が迷いこまないように。
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