遠くへ。

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「遠くへいきたいなぁ。」 暗い空が白いため息と共に僕の小さな願いを吸い込んでいく。いわゆる現実逃避の類だとは自分でも分かっている。SNS上ではなく、今ここでつぶやくことで自分を救おうとしている現実味のない願いだ。 今、この会社から駅、駅から自宅、自宅から駅、駅から会社のサイクルからとにかく逃れたいという思いはあるが、その思いが遠くへ行きたいという漠然な願いへと変わっている時点で、本気ではない。そんなことはできない性格であることは自分でもよく分かっている。たまに映画やドラマなどで主人公が嫌なことを忘れるために何も考えずに電車に乗り込み、気付いたら知らない場所にいて、その未知の場所で物語が進んでいくという話を目にする。そりゃ僕もやってみたい。でもそんなことが出来るほど仕事のことを忘れることは出来ないし、そこまでの交通費を考えずにはいられない。現実味のある人間なのだ。僕は。 そもそも今日怒られたのは僕が悪いのか?いや、田中先輩が作ってくれた書類に不備があったからだ。そうだ、田中先輩が悪い。田中先輩が僕の書類を作らなければ僕が上司に怒られることはなかった。 なぜ田中先輩は僕の書類を作ったのか。それは僕がその書類を期限内に終わらせることが出来なかったからだ。 なぜ田中先輩は不備のある書類を作ったのか。それは僕がその書類を作るにあたって必要な情報をまとめきれなかったからだ。 なぜまとめきれなかったのか。それは僕が時間配分を間違え、違う仕事に追われていたからだ。 …つまり僕が悪い。田中先輩はただ僕を助けようとしてくれただけだ。少し落ち着いて考えれば分かったことだ。「なぜ」を使って起きた事実を遡っていくと原因に辿り着くと前に上司に言われたことがある。こういうことか。僕が悪い。なのに帰り際、田中先輩の誘いを断ってしまった。結構、冷たく。僕を励ます意図もあったであろう。自分のせいで怒られている後輩を見る田中先輩が一番つらかっただろうに。全部僕のせいなのに。今頃、明日の朝、僕に何て声を掛けようかと考えてくれてるだろう。そんな先輩だ。田中先輩は。なのに僕は。自己嫌悪で歩幅が狭くなっていくのが目で見てわかる。新品の靴にいつ付いたか分からない傷がある。 田中先輩になんて謝ろう。 上司にはどうやって挽回しよう。 不備のある書類をいつ改善しよう。 今日の晩御飯はなんにしよう。 明日は何時に起きればいいんだろう。 もう疲れた。めんどくさい。遠くへ行きたい。今のここから逃げ出したい。 出来もしないくせに。 いつものように階段を上り、左に曲がったところの改札を抜け、下へ降りて電車の乗り場へ行く。自宅方向の反対側の乗り場へ行けば僕の今の一番の願いである遠くへ行きたいというのも叶えられるかもしれないが、そんなことが出来るほど明日の仕事を忘れることは出来ない。二度目だ。 もはや人が少ないことを唯一の救いにするしかない時間帯で電車を待つ僕。酔っ払いがちらほらいる。お酒で楽しそうな人を見ると学生時代を思い出すことしかできない僕は、臭いだけで吐きそうになった。いつからだろうか、こんなにお酒と仲が悪くなったのは。あんなに好きだったのに。そんな酒臭さも、辛気臭さも、酔っ払いも、情けない男も、電車は丸ごと受け入れ、大きな奇声と共に決められた道を胸張って進んでいった。 電車に揺られながら、こんな遅い時間の帰路のくせに端っこに座れたことで幸福感を感じている自分が妙におかしかった。早く帰れるのが一番いいはずなのに。まぁいい。今訪れる可能性がある幸せの中ではトップクラスだ。いきなりお金が降ってきたり、いい女が声を掛けてくるなんてことはないのだから。でもそんな幸福感で僕の今日の気持ちを盛り返すことなんて出来ない。相変わら遠くへ行きたい気持ちは消えない。出来もしないけど。三度目。 電車が止まり、少数の人数が入れ替わる。まるで何か試合を見てるかのように交代のメンバーはフィールドに飛び乗ってくる。座席というポジション争いをし、僕の隣の守備位置もすぐ決まった。体の大きい男。僕より確実に座席の面積を使っているので同じ運賃なのがバカらしく感じる。はずれくじだ。いい女が隣に座ってくれたら、いくらでも頭の中で声を掛けれたのに。またその男の声が大きく、知人であろうもう一人の小柄な男もその声に関しては顔をしかめている。そっちの小男の方が友達になれそうだ。 電車の音に紛れてでも大男の声はよく聞こえる。 「お前さ、何くよくよしてんの?」 大男はツレの小男に向けてだったが、逆サイドに座っている僕にもその言葉は確実に刺さった。 「だってさ、先輩に申し訳なくてさ・・・。」 小男の方は本当に気が合いそうだ。今日の僕と同じ内容で悩んでいる。大男なしで僕らで飲みに行った方が解決が早いのかもしれない。 ふと何かを考えこんだような間を空け、大男は口を開く。 「そういやさ、就職活動の時の話なんだけど。」 急にどうした大男。なんの話だ。小男の先輩の話はどうした。頭の中で二人の会話に参加していく。 「俺が仕事無くなって困ってるときに、地元の先輩に紹介してもらって、ある大企業の面接を受けることになったんだけど、その面接のときに俺寝坊しちゃってさ。」 なるほどな。自分の失敗談で相手を慰める手段な。うん、大男らしい判断だ。大男らしいさに根拠はないけど。大男らしさってなんだろう。 「最寄駅付いて、時計見たら、ギリ間に合うくらいだったから、全力で走ってたのよ。駅からの道、1キロくらい。もうすごい全力で。わー!って。」 大男よ、全力ダッシュの描写はどうでもいい。わーって音、間違ってないか。 「そしたらさ、企業の目の前のとこでおじいさんがうずくまっててさ。」 え、なに、そのドラマみたいな話。究極の選択が迫られる感じ。大男の話には不思議と聞いてしまう何かがあった。声がでかいからかも。 「面接のためにおじいさんを無視するか、それとも助けるか。お前ならこういう場合どうする?」 おぉ、まさかここで話を振るとは。名MCじゃん、大男。もし僕がこの大男の立場だったら…何かを期待して助けるだろう。そのおじいさんが実はその企業の社長さんで、面接のときに再会して、君みたいに人思う人材を待っていた。うちに来てほしいとか言われて。そしてその後は真面目な仕事も評価され、社長の一人娘を紹介されて、付き合い結婚したりして、次期社長になったりするんだろうなぁ。・・・は、いかんいかん。意識が遠くへ行ってた。さて、話の続き続き。 「俺は助けるかな。なんかそのあと、そのおじいさんが社長だったりして採用されるかもしれんじゃん。」 いや、小男は僕に本当に似ているな。なんだこいつ。 「やっぱそう思うんだなー。俺はさ、そんなこと考える余裕もなく、気付いたらおじいさんを助けてたんだよ。お前、あんま考えすぎず行動に移すことも大事だぞ?」 お恥ずかしい。耳が赤くなっていくのが分かる。大男が立派な人間に感じてきた。 「でもな、お前の言う通り、そのおじいさん、本当にそこの企業の社長でさ。」 ええー!まじか!本当にそんなことあるんだなぁ。それでそれで。 もう大男の話に夢中。今更になってイヤホンを家に忘れたことにも気付く。どうりで会話がよく聞こえるはずだ。 「でもさ、結局、その面接、不合格だったんだよ。」 え、なんで!だって社長だったんでしょ? 「え、なんで!だって社長だったんでしょ?」 もはや小男と僕は前世で血が繋がってたかもしれない。 「理由は単純に遅刻。面接すら受けさせてくれなかった。大企業ってそんなもんだよ。スタートラインにすら立てなかった。現実って厳しいよな。」 掃除機のような吸引力で話に引き込まれる。 「んで、その数日後にあのおじいさんがそこの企業の社長だと分かったんだよ。でも時すでに遅し、手元にあるのは不合格通知と感謝状。今更、抗議する気にもなれなかったなぁ。」 うーんと深くうなずく小男が2人。傍から見たら3人組に見えているかもしれない。 「そこでさ、その数日間、頭にあるのは面接を紹介してくれた先輩なんだよね。先輩の顔に泥塗っちゃったからさ。申し訳なくて連絡も返せないでくよくよしてる日々続いたんだよ。でもある日、それじゃいけないっと思って、決心して先輩に会ったんだよ。謝ろうと思って。」 手汗を握ってた。おそらく反対側の小男も。やっぱこの大男は立派な人間だ。 「そしたら先輩は、いーよいーよ、そんなことより飲みに行こうって。あっけらかんに。」 ほう、良い先輩だなぁ。悩んでたのはこっちだけだったんだなぁ。先輩にとってはそんな大したことではなかったのか。うんうん。 「でもな、あとから聞いたら先輩、俺のことでたくさんの人に頭を下げて回ったらしい。面接をドタキャンしたわけだから、たくさんの人に迷惑掛かっちゃったからな。なのに俺の前ではいつもの先輩なんだよ。俺に気を遣わせないように振舞って。もう頭が上がんねぇよ、俺は。」 大男は少し上を見上げた。僕より大切な何かを見えているかのように。僕が田中先輩に出来なかった目。温かい目。 「だから要するに、先輩はいつまでも先輩だし、後輩は後輩なのよ。だから甘えちゃえばいいんじゃね?」 大男は少し笑いながら、小男の肩を肩でぶつけた。小男は少し鼻をすすりながら、明日をみつめてるように外を見ながら大男に口を開く。 「うん、そうだな。明日、先輩に思い切って謝ってみるよ。」 小男は決断した。立派な決断だ。すごい。場所が場所なら拍手をしているだろう。 …それに引き換え、僕はどうだ。田中先輩に、何ができる?いや、何ができるとかではないんだな。さっき学ばせてもらった。ただ思いを伝え、ありのままに僕を伝える。謝罪と援助要請だ。田中先輩なら絶対に受け止めてくれる。そんな先輩だ。何を迷ってたんだ。まったく。 そんな小さな決断をしている僕をよそに二人は席を立った。ありがとう。二人のおかげでなんかすっきりしたよ。小男もちゃんと謝れるといいね。 「ちゃんと先輩のプリン食べてごめんなさいっていうんだぞ!」 大男は大きな声で小男を叩き、小男は小さく大男にうなづいた。 …いや、プリンて!!謝る内容、しょうもな!! 心の中でずっこけながらも、この電車で乗り合わせたでこぼこコンビとの出会いに僕は感謝をしていた。不思議と気持ちが切り替わっている。さぁ、明日からも仕事を頑張るか。 ・・・ん? 外を見たら全然知らない駅に来ていた。寝てもないのに乗り過ごしたのは初めてだ。図らずも遠くへ来てしまったわけだ。場所も意識も。そんな自分を笑いながら携帯で引き返す電車を調べているときに田中先輩からメッセージが来た。 『明日、昼飯でもどう?』 さすがに優しすぎるだろ、田中先輩。まじか。 この人にはずっとお世話になろうという気持ちを込めて、 『もちろん。プリンも付けてくださいね。』 遠くの場所を夢見るより、近くの居場所を見つめ直す。 僕はとても夢見がちな現実主義者だ。 良かった、終電はありそうだ。
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