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サプライズの約束
「遙香」
私の肩口に顔を埋めて、彼が名前を呼んだ。
長く逞しい腕に抱きしめられ、身動きが取れない。
私はただ唖然として、耳元で荒く弾む吐息を聞いていた。
わけがわからなかった。
どうして彼がここにいるのか?
いきなり駆け寄ってきて、なぜ抱きしめられなければならないのか?
おまけにこの思いつめた感じの声。
まるでそうしなければ、私がこの世からいなくなってしまうとでも言わんばかりの切羽詰まった抱擁に、私はどう反応していいか分からずにいた。
ここは、長野にある私の実家から、歩いて10分ほどの川のほとり。
県境を越えるとあの有名な川へと呼び名が変わる、日本一長い川を見渡せる場所だ。
水量豊かな川の流れは緩やかに拡がり、すぐ足もとまで迫っている。穏やかに流れる水面は、いままさに山向こうに沈もうとする夕日に煌めいて、色鮮やかな初秋の夕暮れを彩っている。
東京の大学に進学して10年。久しぶりに眺める故郷の秋の景色に、ほのぼの浸っていた最中のことだった。
突然駆け寄ってくる人影に驚いて振り向くと、それがなんと彼だった。
彼とは、瀬戸修平。
一言で説明するならば、私の恋人ということになると思う。
思う、というのは、最近ではもうひとつ恋人という実感が湧かないからだ。
恋人とは、当たり前のことながら互いに恋し合う人である。よってもって、お互い恋をしていなければ恋人とは呼べない。
私たちふたりは、付き合ってはいても、本当に恋しているのだろうか?
そんなことを考えてしまうのは、ひとつには、付き合いだして3年という月日からくる倦怠感がある。
そしてもうひとつは、これが大きいんだけど、この1年ほど彼の仕事が忙しく、ゆっくりふたりの時間がとれなかったことにある。
彼の仕事はシステムエンジニア、いわゆるSEだ。
仕事は不規則で、システムトラブルの名の下に、深夜や休日に呼び出されることも少なくない。特に大規模トラブル案件に巻き込まれたここ1年は酷くて。深夜勤務や休日出勤は日常茶飯事。今どきの働き方改革で最低限の休みは取れてるみたいだけど、帳尻合わせのように平日に休みを入れられても、ふたりの時間なんて取れるわけがない。
一方の私はフラワーコーディネーター。
コーディネーターと言えば聞こえはいいけど、花屋さんから派遣される装飾業者みたいなもので、日々雑事に忙殺されている。景気に左右されやすい業界だから、売上が伸びても人は増やしてもらえないし、限られた人数でお客のスケジュールに合わせてやりくりせざるをえないから、私の休みを彼に合わせることも難しいのだ。
彼を好きかと言われれば好きだし、彼も忙しいとは言いながら、そこそこ会ってはくれている。
ただ、会った時でも、さっと食事をして、体を重ねてじゃあまたね。
これじゃセフレとどう違うのよと言いたくもなる。言えないけど。
そんな気持ちが積もり積もって、つい先日ちょっとした喧嘩をしてしまった。
けれど、喧嘩くらいこれまで何度もあったことだし、従妹の結婚式で帰省している先まで追いかけてきて、連ドラのヒロインよろしく抱きしめられる理由がわからない。
「修平、苦しいよ」
荒かった彼の呼吸が戻ると、まずはしがみつく体を引き剥がした。
あらためて向かい合った彼は、すっごく険しい顔してる。
「どういうつもりだよ?」
睨むように言われて、呆気にとられた。
それって私の台詞だと思うんですけど?
「いきなりあんなラインを送りつけてきて、俺たちってそれだけの関係だったのか?」
「え?」
ライン?
と記憶を遡る。
ラインは送った。
今日会えるかと聞かれたので、会えない。実家に帰るからと。
「もう会えないってなんだよ。そのうえ故郷に帰るとか、もう決めたとか。ごめんなさいと謝られてハイそうですかって終われるかよ」
彼は勢い込んでまくし立ててる。
もしもーし、と突っ込みたい気分だ。
私が送ったのは、
『(今日は)会えない、(明日の結婚式に備えて)もう実家に帰るから』
と1回。
送るとすぐに通話の着信があったので、
『もう新幹線(の時間だから)、ごめん(またあとで)』
ともう1回。
確かに折り返すのは忘れてたけど、早とちりにもほどがある。
発車時刻に遅れそうになって、走りスマホで短文になったにしても、もう会えないなんて書いてないし、故郷じゃなくて実家だし、もう新幹線をもう決めたに至っては勝手に脳内変換されている。
それよりなにより、この週末が従妹の結婚式だなんて、ずっと前から言ってある。どうせ、まともに聞いてなかったんだろうけど。
ただ、あらためて彼の格好を見ると、見慣れた部屋着のトレーナーにワークパンツ姿だった。
ラインを送った時刻と、ここまでの移動時間を考えると、着の身着のまま飛び出して来たらしい。
私に、突然別れを突きつけられたと思って……。
そう思うと、ここで笑ってしまうのは可愛そうな気持ちになってくる。
「どうして、ここがわかったの?」
ひとまず、気になった疑問をぶつけてみた。
「家で聞いた」
ぶっきらぼうに彼は言った。
「家って、実家に行ったの?」
「ああ、女の子が出てきて、たぶんあの子が結香ちゃんかな?お姉ちゃんならきっとここだって教えてくれた」
たぶんじゃなく、それは間違いなく妹の結香だ。
だとすると、今ごろ家中大騒ぎに違いない。
父からは、さっき、東京で身を固める気がないなら、こっちで見合いをさせると言われて揉めたばかりだ。その直後に、この形相ではるばる男が訪ねてきたのだから。
いま実家には、祖父母と両親、地元で先生をしてる結香のほか、明日の結婚式に備えて、都内に住む叔父夫妻が泊まりに来てる。
ここの叔母さんがまたお喋りなのだ。その上、明日の結婚式には、父方の主だった親戚が残らず顔を揃えることになっている。
なんか頭痛くなってきた。
俯いて、顰めた眉に手を添えると、
「おまえが悩んでたのは知ってたよ」声を柔らかくして修平が言った。「仕事のことだろ?」
私が泣きそうになってると思ったみたいだ。
「仕事って?」
「聞いたよ。いまの花屋、辞めようか迷ってるって」
「彩美に?」
修平は頷いた。
彩美はふたりの共通の友人。ふたりがつき合うきっかけを作った子だ。
つい数日前、飲んで彼女に愚痴をこぼした。酔いも手伝って大げさに話したけど、いますぐ辞めるとかまで思いつめてたわけじゃない。
「凹んだよ。俺、なんにも聞いてねぇし」
「話しても、ちゃんと聞いてないじゃない」
「そんなことないさ」
「あるよ、この間だって……」
先日の喧嘩のことだ。
「あれか」と彼は困った顔をした。「あれは、俺が悪かったよ」
真面目な顔して言うのを聞いて、おおっと思った。
あの喧嘩はぜったいに彼が悪いと思う。だとしても、こんなふうに素直に謝るなんてびっくりだ。よほど別れ話が効いてるらしい。
「ただ、仕事のことは本気で心配してたんだぜ。それを、いきなりこれはないだろ」
なるほど、それがあったから、私が仕事を辞めて故郷に帰ろうとしてると思ったんだ。
「いきなりって、あのね……」
と、真相を明かしかけて迷った。
正直、修平がこんな形で私を追いかけてきてくれるなんて、思ってもみなかった。
最近ではすっかり甘い雰囲気も影を潜め、ふたりでいても気怠い会話が続くだけ。忙しいとか、疲れてるのはわかるけど、ときめきがなくて何が恋愛と言えるのだろう。そんな思いがあったから、よけいに彼の見せた熱い行動が私の胸を打った。
だからだと思う。
「それだけじゃないよ」
そんな言葉が口をついた。
「それだけじゃって?」
「私たちふたりのことだよ」
この際だから、きちんと彼の気持ちを聞いておきたいと思ったわけだ。
「修平はどう思ってるの?私のことを、私たちのこれからを」
ずっと、ちゃんと聞きたいと思ってた。
「忙しいのはわかるよ。疲れてるのも。でも、それに逃げてるだけにも思えるんだよね」
それとなくなら聞いてみたことはある。
でもそのたび面倒くさそうにはぐらかされて、そういう話はしたくなさそうに思った。修平は、私との未来なんて真面目に考えてないのかなって。
だから、それ以上は考えないようにしてきた。
「忙しい中を時間をつくってくれるのは嬉しいんだけど、せっかく会っても、さっと食事して、ベッドに入ってはいさよならって、それってセフレと変わらないじゃない。私って、あなたの何なの?」
せっかくだし、言えなかったことは全部言ってしまおうと思った。
別れると聞いてこんな所まで追って来てくれるくらいだから、多少のことは平気だろう。
ところが喋りだすと、思った以上に切ない気持ちになってくる。
修平は、黙って聞いてくれていた。
なんかすっごく真面目な顔してる。
「ずっと不安だったんだから、私たち、この先どうなるんだろうって」
明日結婚する従妹は、私よりふたつ年下だ。
妹の結香にも結婚を約束した人がいるらしいし、まわりの友だちだって半分くらいは既婚者だ。
私にだって、焦る気持ちはある。
「俺が悪かったよ」
深く眉を歪めて、修平が言った。
謝ってくれたことは嬉しいけど、同時に腹も立った。
「今ごろ謝ったって遅いよ」
ちょっとうるっとしてしまった。
慌てて顔を伏せる。
「遥香……」
名前を呼ばれて首を振った。
「もういいよ。疲れちゃったの」
俯いたまま言った。
「そんなこと言うなよ」
優しく声をかけられるとどんどん切なさが増して、さらに激しく首を振る。
「もう決めたんだもん。修平には、あたしなんかよりもっといい子がいるよ。その子と幸せになればいいんだよ」
ちょっとあなた、と突っ込むもう一人の自分がいた。
なんか、流れで言ってしまった。
もちろん別れるつもりなんかない。でも、止められなかった。
「そんなヤツいるわけないだろ。俺にはおまえしかいないんだ。ずっとそう思ってた。だからこうして追いかけて来たんだろ?」
欲しかった言葉。
切なさで胸がいっぱいになる。
俯いたまま、もう何も言うことができない。
だめ、ほんとに泣きそうになってきた。
そのときだった。
突然、修平は言った。
「結婚しよう。遥香」
あまりに唐突な言葉に、私は、顔を俯けたまま目を丸くした。
「いずれは言うつもりだったんだ。いまは仕事があんなだし。一区切りついてからと思ってた。ただ、ここにきてトラブルも先が見えてきて、来月には最終報告も予定されてる。この一年、残業代でかなり稼いだからな。クリスマスには洒落たホテルでも取って、イルミネーションの中でサプライズで言おうと思ってたんだけど。悪かったよ。お前がもうすでに限界だとか、分からなかったんだ」
恐る恐る顔を上げ、喋り続ける彼を見た。
「ホントなの?」
「噓なんかつくかよ」
「だったら、なんで教えてくれなかったのよ」
思わず叫んだ。
「教えたらサプライズにならねぇだろ」
まぁ確かにそのとおりなんだけど。
「そんなの知ってたら、私……」
今日はあっさり彼の勘違いを指摘して終わってましたとか、いまさら言えたものじゃない。
「機嫌直ったか?」
修平は優しく微笑んでくれた。
機嫌が直るどころか、舞い上がるほど嬉しい。
ただ、同時に、とんでもなくもったいないことをしてしまった気分になった。
もちろん、いまのこのシュチュエーションだって素敵だ。ただ、彼の勘違いに便乗して言わせたみたいで、もうひとつ素直に喜びきれない。
「あのね?」
上目遣いで彼を見た。
「ん?」
「やっぱり、いまのなし」
「は?」
「聞かなかったことにするから」
「なんだそれ?」
意味わからんという顔してる。
構わず、私は言った。
「クリスマスのサプライズでプロポーズ、本当だよね?約束だからね」
「どこがサプライズだよ」
「いいの。驚くから」
修平は呆れた顔してる。
やがて、しかたがないなって感じで、笑いながらため息をついた。
「わかったよ。ちゃんと驚けよ」
頭をポンポンされて、なんかまた泣きたくなってきた。
「修平」
呼びながら彼に抱きついた。
「もういっぺんギュッとして。さっきみたいに、強く」
潤んだ声で言うと、彼は、さっきと同じように強く抱きしめてくれた。
さっきと違うのは、夕日が残照に変わっていたことと、私の腕がしっかりと彼の背中に回っていたこと。
そうしてひとしきり抱き合っていると、僅かに残った空の明かりも山向こうへと消えて、代わりに夕闇が降りてくる。
覆い隠す薄闇にまぎれて、ふたりは長いキスをした。
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