Color.2《キッカケ》

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「え……」 龍は驚いたように声を漏らした。水城が龍に深く頭を下げると、丁寧に整えられた髪型が僅かに崩れる。 水城の両手は強く握られ、見て分かる程に震えていて、体にもかなり力が入っていた。 イタズラをして親に怒られる子どものように彼はただ謝った後、何も言わずに口を噤む。 龍が話すのを、待っている。 「あ、あの……」 龍は自分でもびっくりするくらい、小さな声しか出なかった。正直、水城に謝られるとは思っていなかったから、何と言葉を返せばいいのかよく分からない。 「__水城先生は俺の事……いや、昔の俺の事を知ってるんですか?」 やや遠慮がちにそう聞くと、水城は顔を上げ、ぐっと唇を噛み締めながら龍を真っ直ぐに見据える。 (………っ!) その瞳が龍を映し出した途端、体中の熱が上がっていくような感覚に襲われた。体に触れられている訳でもないのに、温かい奔流が体を包んでいく。 「……知ってるよ。__君が、お前が知らないお前の事」 昔から。……水城はそう言って微笑んだ。嬉しそうにも、寂しそうにも見えるその表情は、憂いを帯びてせっかくの整った顔に(かげ)りを落としている。 (昔の、俺……) 水城から目を逸らしたかったけれど、彼のあまりにも真剣な瞳をもっと見ていたいとも思った。龍の知らない自分()を、もう取り戻せない失ってしまったものを、彼は知っているのだ。 (どんな奴だったんだろう……) 龍は久々にその感覚を思い出した。__あの寒い冬の日に、自分は全てを失った。いや、そう教えられただけで、自分にとっては今の自分しか分からないのだから、失った、という言葉が正しいのかは分からない。 どこに向かっていたのか、狭い住宅街の道を急いでいたのが原因だったのか。__交差路で横から出てきた車と接触した。幸い、と言っていいかは微妙なところだが、住宅街の道とあってそれ程スピードが出ていなかったからまだ良かったものの、それでも一時は生死の境をさまよう程の重体だったらしい。 病院のベッドで目覚めた時、龍の中身は空っぽだった。医師に名前を聞かれても、何も思い出せない。__人間だという事。生きているという事。そして、例えば勉強などは、不思議にも忘れてはいなかった。ただ、『自分の人格』だけが綺麗サッパリ無くなっていたのだ。 ……事故の一時的なショックによるものだと言われたけれど、それ以来龍に元の記憶が戻る事は無かった。何か思い出せそうな感覚がする事はあっても、その度に激しい頭痛と吐き気が体を襲う。そしていつの間にか、思い出そうとする事さえ諦めてしまった。 今の自分が好きな訳じゃない。でも、無理に思い出そうとして苦痛に身悶える事に疲れていた。 「……お前の体の事も、全部知ってる。よく体調も崩すし、毎年、冬は必ずインフルにかかる。あの日の朝だって……そうだっただろ?」 あの日。水城と初めて会った日の事だ。何か思い出せそうな、不思議な感覚と共に、視界が歪んだ。__今思えば、あの時点で水城は自分の事に気がついていたんじゃないか。 「……水城先生、あの時俺に__」 「うん。言ったよ。本当は、お前とはもう関わらないつもりだったから」 切なげに、頬を緩めて。水城は笑った。龍を優しく、だが穴が空くほど見つめられれば、流石に龍は彼から目を逸らした。 水城はそんな彼の様子を見て静かに瞬きをした後、立ち上がった。 「……俺とお前が会えば、お前は俺の事を思い出してくれるかもしれない。悪い、少しだけ、期待してたんだ。だけど、違った」 「…………」 テーブルの向こう側にいた水城は、ゆっくりテーブルを迂回して龍に一歩、近づいてくる。さほど広くはない数学準備室で、一歩近づかれればそれなりに二人の距離は縮まった。
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