Color.2《キッカケ》

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最早、聞く事さえ諦めた。何で家の場所を知ってるのかとか、コンシェルジュとそんなに親しげなのかとか、その他諸々。 龍が教えた訳でもないのに、水城は迷う事なく龍が住むマンションへ車を走らせた。帰宅ラッシュの時間帯のせいで中々進まず、着いた時にはもう既に辺りは暗くなっていた。ロビーから漏れる明かりが外からはっきりと分かる。 「……で、何で家までついてきてんですか」 四角いエレベーターの隅のギリギリ、水城からできる限り距離をとって立ちながら、龍は低く唸った。正直、歩いて帰れるほど体に余力はなかったから、送り届けてくれた事に感謝はしている。……が、それとこれとは別問題なわけで。 「心配だからに決まってんだろ?__それに」 「……?」 扉付近で壁にもたれかかっていた水城は、ゆっくり体を起こしながら小さく笑った。 「まだチャンスはあるらしいからな」 「……チャンス?」 聞き返すと、彼はこくりと頷く。数学準備室で龍に見せたような、今にも消えてしまいそうな苦しげな微笑みではない。テレビの向こうにいても何もおかしくないような整った顔立ちは今、腹が立つくらい大胆不敵で自信満々の微笑を浮かべていた。 エレベーターが上昇し、体がその何とも言えない浮遊感に包まれる中、水城は龍へと歩み寄ってくる。四角くて狭い箱の中を、龍は彼から逃げるように後退りしようとしたが、すぐに後ろの壁に背中がぶつかった。 「み、水城先生………離れてくださいって」 「んー?ちゃんと嫌だ(・・)って言ったら離れるけど」 「__っ」 水城は、龍の逃げ場を防ぐように隅に彼を追い詰め、壁に押し付けてくる。近づけば近づくほど、甘く柔らかい香りが龍を包み込む。嫌だ、その一言を言えばいいだけの筈なのに、口が上手く動いてくれない。 「……キスしちゃうけど、いい?」 耳元に、ボソリと水城の声が落ちる。それだけなのに、龍の体は何かを期待するようにピクリと震えた。首を横に振れば、水城はきっと離れていくけれど。 (__嫌、だ) 「………っ」 違う、『嫌』なのは、水城にキスをされる事じゃない。 (離れられるのが、嫌、なんだ……) ちょっとずつ、焦らすように水城の顔が龍の視界を埋め尽くしていく。エレベーターの動きさえ忘れるほどに、龍は彼に意識を奪われてしまう。 鼻先が触れ合う。甘美で痺れるような熱を持った吐息が、龍の桃のように淡く紅潮した頬を、優しく撫でる。 吐息の、その僅かな音。衣擦れの音。エレベーターの無機質な機械音など、どこかへ消えてしまったかのように、それらだけが龍の耳に響いた。 揺蕩(たゆた)うセミロングの黒髪が、照明に照らされ美しく光るのが見えたその瞬間、水城はにっこりと笑った。 「…………」 龍は、覚悟を決めたかのように目を瞑る。心臓の音がドクンと高鳴り、自然と口が半開きになった。 __けれど、その時はいくら待っても訪れる事は無かった。 水城の体は、龍から離れていく。香水の匂いだけを残して。 「な……」 何で。そう言いそうになって、慌てて龍は両掌で口を塞いだ。 丁度、エレベーターが階に到着してその扉が開く。水城はおもむろにこちらに背を向けてエレベーターを降りながら、龍の方を振り向かずに言い放った。 「……お前は、やっぱり優しい奴だな」 「__はあ?」 その背中は、龍が思っていたよりもずうっと細くて。 龍はおやつをお預けされた子供のように、不機嫌そうに顔を歪めながら水城に続いてエレベーターを降りたのだった。
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