Color.2《キッカケ》

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「…………」 例えば、大切な人がいたとして。その記憶さえ失ってしまったのなら、そこには何が残るんだろうと思った。空っぽの自分なんかに価値がある訳無いのに。水城は、本当の自分を好きなのであって、今の自分を好きな訳じゃない。間違ってはいけない。期待しちゃいけない。__好きなんかじゃない。怖い、失望されるのが、恐ろしいんだ。 「……リュウ」 重い足取りで玄関の扉を開けると、そこには燐が立っていた。まだ決して暑いと言えるような季節ではないのに、額にびっしょりと汗をかいている。 「燐、俺………ぁ……」 呼吸の仕方を、忘れてしまったようだった。何かを言おうとする度に、喉の奥がきゅうっと締まっていく。苦しくて、龍は目の端に小さく涙を浮かべた。 「リュウ、取り敢えず中入ろっか。ゆっくり落ち着いてから話そう」 宥めるような燐の声に、コクリと頷く。体格的に龍よりは圧倒的に細い燐にさえ寄りかからないと歩けないくらい、今の龍の足取りはおぼつかなかった。リビングまで燐に連れられて戻り、ソファに身を預ける。 「__これ、洗ってくるね」 燐は、テーブルに置かれたままだったマグカップを手に取った。二つあるそれらはどちらも大半の中身が残ったままで、すっかり冷えきっている。今更飲む気にもなれなかったし、処分してもらって正解だ。 「リュウはさ、ボクからしてみれば強い人だと思うよ」 キッチンから戻ってきた燐が、龍の向かいに置かれたクッションに腰を下ろしながら唐突にそう言った。 「強い……?俺が?」 「__覚えてる?初めて会った時の事。あの時、ボクに言ったよね。『お前、女みてぇにヘラヘラ笑ってんじゃねえよ気色悪ぃ』ってさ。ボクけっこーショックだったんだからね?」 龍は首を傾げた。そう言われてみれば、そんな事を言ったような気もする。でも、その時の事を思い出そうとしてもやはり靄がかったように記憶が薄れるのだ。深く、深く潜り込もうとする度に何かに阻まれてしまうようで、嫌な記憶さえ蘇ってしまいそうで、結局そこで諦めてしまう。__だから、何も思い出せないまま。今の自分の記憶でさえあやふやなのに、どうして昔の事など思い出せるだろう?龍は無意識に、その手に力を込めた。 「……リュウは、思い出したいの?昔の事。もしかしたら、ものすごく辛い記憶かもしれないのに。__思い出さない方が、幸せかもしれない。それでも、水城せんせーの為に思い出したい?昔のリュウに戻りたい?」 「水城の為にって……そんな訳」 「無いって言えないでしょ?__だって、もしもリュウが水城せんせーの事何とも思ってないんだったら、きっと今日だって呼ばれても無視してたでしょ?」 燐は早口でそう告げた。いつもよりずっと強ばった声で、彼らしくもない責めるような口調に、龍は訝しげに眉をひそめる。燐は龍と目を合わせようとせず、俯いたままだ。 「__そんな事ねぇよ。俺がどんなに水城の事嫌いだろーが、俺は……」 「リュウは真面目だから。……でも、今はそーゆー話をしてるんじゃないの。ねえ、告白されたんでしょ。水城せんせーは、昔のリュウを知ってるんでしょ?……ボクね、リュウの事好きだよ。昔じゃなくて、今のキミが。__いいよ、そのままのキミで。いいんだよ……いなくならないで」 音も無く立ち上がった燐は、冗談だろ、と笑えないくらいに見た事のないほど暗い顔をしていた。くしゃくしゃに歪められた顔は、今にも泣き出しそうだ。驚き、ただ見上げるだけだった龍の傍に寄ってくると、燐はそっと龍の体に両腕を回した。燐が龍の首元に顔を埋めると、吐息が龍の肩を撫でた。その熱が、冷えきった龍の体を温めていく。けれど、それを否定するように龍の心は冷たく凍えていくようだった。 「__好き。ごめん、ほんとは今言うべき事じゃないよね、分かってる。混乱してるキミにこんな事言うなんて、酷い話だと思う」 「……り、ん。嫌だ、離れたくない」 自分でも、どうしてその言葉が出てきたのか分からなかった。もう、限界だったのかもしれない。今まで一度たりとも昔の自分を思い出そうとする努力をしなかった事を、後悔した事は無かった。でも、今は何より記憶が恋しい。思い出したかった。水城が好きだった自分を。愛されていた自分を。 けど、掴もうとする度に記憶の欠片は深い闇へと落ちていく。底なし沼みたいに、それを追いかけようとすれば自分自身さえ捕らわれる。だったら、もう苦しみたくない。怖い、苦しい。楽になりたいと、龍は思った。 「__おれ、お前が好き。……一人にしないで、燐」 離れようとする燐の体を、離さまいと抱きしめ返す。龍の記憶にあるよりもずっと細く感じる彼の体は、何かを迷うかのようにぴくりと震えた後、龍に応えるように力を抜いた。 「ボクの好きは、キミが思ってるようなキレイなもんじゃないよ……。__女のコと同じように、ボクはキミを好きなんだよ?……それでも、いいの?」 燐の小さな手が、龍の首筋に触れた。ソファの背もたれに体を預けた龍を押し倒すように、燐は彼の顔を覗き込む。淡い灯籠のように揺れる瞳に絡め取られてしまいそうで、だけど視線を逸らせない。女みたいに柔らかい顔立ちが、今は随分と精悍に見える。龍の視線が燐に吸い寄せられると、彼はにっこりと微笑んだ。 朱色に染まった唇が、少しずつ近づいてくる。目が離せない。蠱惑な瞳に酔いしれて、このまま燐に全てを奪われてしまいそうだったけど、もうそれすら龍にはどうでも良い事のように感じられた。__だって、怖くないのだ。水城とは違う。燐は、今の自分を好きでいてくれる。なら、そのままでも良いんじゃないかと思ってしまう。 「リュウ」 龍は目を瞑る。今は、ただ彼に身を任せてしまいたかった。空っぽの自分を肯定してくれるなら、それでいい。燐の事は、嫌いじゃない。今のままでいいんだと、そう言ってほしい。 「ボクは……」 目と鼻の先で、燐の吐息が漏れる。暗い影が落ちるのが、目を瞑っていても分かる。 「早く……燐」
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