1.囚われて

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1.囚われて

 私は暗闇の中、橋の上に立ちつくしていた。下を通っているであろう川の流れはほとんど見えることなく、ただ轟々と流れる水の音だけが聞こえる。この水はどこへ向かっているのだろうか、そんなことをぼんやりと考えた。頬を撫でる風が冷たい。もう十一月、ワンピース一枚で出歩くような季節ではなかった。 (そろそろ、かな)  山の稜線が少しずつ明るくなっていくのが見える。すると案の定橋の向こうから誰かが近づいてくる気配を感じた。見なくてもわかる。彼だ。 「あぁ、涼子、心配したじゃないか。さ、帰るよ」  そう言って彼は私の腕を掴んで引き寄せると強く抱きしめた。傍から見れば仲のいい恋人同士にでも見えるのだろうか。私はその腕を振り払おうとして両手を上げかけ……諦めて力を抜いた。だらりと垂れ下がった私の手を握り彼はニタリと嗤う。そう、どこへ逃げても同じ。彼は必ず私を捕まえる。どのみち私に逃げ場所などなかった。両親を早くに亡くし引き取り手もなく施設で育った私には頼ることのできる親類もいないのだから。束の間過去の自分に思いを馳せる。  中学を出た私はすぐに働きに出た。早く独立して施設を出たかったからだ。その就職先の社長の息子が彼。どうやら早くから私に目をつけていたらしい。彼が二十五歳私が二十歳のある日、突然プロポーズされた。お付き合いもしていなかったのに。 「僕と結婚してこの会社を辞めるか、何も持たずにこの会社を辞めるか、選んでね」  彼はにっこり微笑むとそう言った。あの時の表情は今でも忘れられない。愛情というよりも狂気を感じさせる笑み。そもそも彼のやり方は実に巧妙だった。配置変えを繰り返し私が特定の人と仲良くならないよう気を配り、自分がいかに身寄りのない私の心配をしているか事ある毎に周りに吹き込んだ。彼からのプロポーズは周りには美談にしか見えなかっただろう。断ることなどできるはずもない。  結婚すると彼は私を自宅に閉じ込めた。高級タワーマンションが私専用の牢獄。扉は外から鍵がかけられるようにしてあり外出を禁じられた。インターホンの電源も切られ、電話もテレビもない。彼の部屋にはあるようだがもちろん鍵がかけられている。外部との接触は完全に断たれた。本も雑誌も新聞もない部屋で私は一日中掃除や洗濯など家事だけをして過ごした。買い物も彼が行くか彼がいる時間にネットスーパーで注文する。それでも最初の頃は子供ができればきっと何かが変わるに違いないと淡い期待を抱いていた。ところがある日彼の放った一言が私のそんな期待を打ち砕く。 「僕さ、残念ながら子供作れないんだ。でも大丈夫。ずっと二人で仲良く過ごそうね。大事にしてあげるよ。涼子は僕のものだから」  嬉しそうに彼は言った。結婚を申し込んだ時のように笑みを浮かべて。その時初めて私は理解した。彼が欲しかったのは愛する妻でも温かい家庭でもない。自分に絶対服従の人間。ただそれだけ。身寄りもなく逃げ出す場所のない私はその役にうってつけだった。  何不自由ない地獄のような日々。矛盾するようだがまさにそんな暮らしだった。そんなある日、仕事が休みだった彼はちょっと買い物してくると言い残して部屋を出た。 (あれ……?)  いつも聞こえる鍵の音が一つ少ない。 (ひょっとして……)  おそるおそる内側から鍵を開け扉を開く。 (あ……開いた!)  彼が外からの鍵をかけ忘れたのだ。私は急いで靴を履き表へ飛び出す。靴を履いたのなんて何か月ぶりだろう。マンションのエントランスを抜け外に出た。 (逃げなきゃ)  そう思って走り出したものの、次の瞬間途方に暮れる。 (逃げるって……どこに?)  頼ることのできる親類も、連絡のつく友達もいなかった。彼と結婚するときにスマホを取り上げられており誰の連絡先もわからない。警察に駆け込もうかとも思ったが夫に監禁されているなんて話信じてもらえるだろうかと躊躇った。彼は話が上手い。適当なことを言ってごまかされてしまえば私は反論することもできないだろう。第一あの家を出て私はどこに行けばいいのか。とりあえずマンションから離れようとしばらく走り目の前にあった公園のベンチに座って一人考え込んだ。どのぐらいそうしていただろう。不意に人の気配を感じ視線を上げる。目の前に立っている人物を見て思わず「ひぃ」という悲鳴が漏れた。 「こんなとこにいたのかい」  彼はそう言ってニヤニヤと嗤いながら近づいてくる。恐怖のあまり動けずにいる私を抱きかかえるようにして彼は部屋へと戻った。豪奢な牢獄へと。その後も彼は度々鍵をかけ忘れた。無論わざとだ。それでも、連れ戻されるとわかっていても鍵が開いていれば外に飛び出さずにはいられない。ある時私は気付く。これは彼にとってはゲームなのだと。私を逃がし、また捕まえるゲーム。その証拠に長く家を空けるときは決して鍵をかけ忘れることはなかったのだ。
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