長州藩のDNA

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長州藩のDNA

長い長州藩の歴史を振り返ると 戦国大名時代の毛利元就は現在の広島市を拠点として中国地方(現在の岡山・鳥取・広島・山口・島根)と北九州地域(福岡・大分の一部)の広大な地域を収めていたころは100万石以上の米作とそれに加えての瀬戸内海、日本海の海産物、石見の銀山、馬関(現在の下関市)を通じての貿易および関税収入で優に200万石以上の実力があったとされている。 つまり名実ともに当時は西日本で一番裕福な藩であった。 しかし歴史の転換点である1600年の関が原の戦い以降、豊臣秀頼を担ぐ西軍の事実上の大将であったがために、敗戦後は大幅な減封を言い渡され首府を広島から遠く離れた日本海岸の萩まで移動させられた。 しかも最盛期の5分の1の、わずか37万石という石高にまで領土を押さえられたのである。 このことはいかに徳川幕府が毛利家の再起を恐れていたかの証である。 この37万石という数字は単に隣の広島に新たにやってきた徳川側の福島正則の知行である36万石という数字とのバランス保持のためだけ決められた石高であったので大きな意味合いはない。 しかしこれほどまでに禄高を極端に減らされてもなお毛利藩は、多数の家臣団を維持し続け、辛酸を舐めつつ山あいの新田開発や海沿いの塩田開発などによって産業用に使用できる土地を広げて着々と別収入を稼いで家臣と領民を養うだけの体力をつけていったのである。 徳川側の目からすると、かなり「しぶといやっかいな藩」として映ったことであろう。 このように常に辛酸を舐め続けさせられた毛利家の徳川家に対する怨嗟の気持ちを表した有名な言い伝えが残っている。 毛利家では毎年正月に新年の挨拶として登城した家老が「殿、倒幕はいかに?」と聞く慣習があったそうである。 そしてそれを聞いた城主が「まだ時期尚早」と答えるのが毎年の通例となっていたと伝えられている。 江戸幕府に対して約5分の一に減封された「恨み」の心は領主のみならず家臣と領民の心の中にも蓄積され260年間、世代を変えても決して忘れられることが無かったという。 まさに「臥薪嘗胆」の長州バージョンである。 このように「時期尚早」という言葉の通り常に外敵に対しての過剰なまでの敵対心と研究、情報収集が行われていたのである。 そして戦う前の準備として必要な戦闘員の教育、組織化、武器の調達、食糧の兵站などおよそ近代戦と変わらないような「戦闘配備」を合理的に瞬時で行う風土がそこに培われたのである。 まさに長年蓄積されたこのDNAこそが多くの長州人の本質ではないかと筆者は想像する。 このことは現代でも総理大臣をはじめ多くの大臣や政治家を一番輩出している県という現実が雄弁に物語っている。 それともう一つ長州藩の特色として下関(当時は馬関と呼ばれていた)という良港の存在が挙げられる。 今でこそ日本の有名な港は神戸や横浜となっているが、江戸時代においてはそもそも両港は存在していなかった。 その中で下関は当事一流の良港でありまた物流と情報の拠点でもあった。 この地は瀬戸内海と日本海の分岐点であり当時日本国内の船舶は必ず下関に寄港して物資とともに有益な情報も置いて帰った要衝の地である。 また韓国や中国とも近く日本国内の情報のみならず当事の最新の海外事情もタイムリーに手に入ったことは容易に想像できる。 このことから当時の長州人たちは下関という「最新の巨大なアンテナ」から時代の最新情報を受け取り、他の諸藩よりも先駆けて時流を読み取ることができたのである。 この地の利は大きい。 本編の主人公児玉源太郎を語るときにこの特異な長州人のDNAをよく理解することが必須ではないかと考えるものである。
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