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児玉文庫 1
前述の通り長州人のDNAとしてまずは「子弟の教育」が挙げられる。
軍人であった源太郎も例外ではなくこのDNAは持っていており自分を育んだ徳山市の未来を担う師弟の教育のために「児玉文庫」という私設図書館を日露戦争が始まる直前の激務の中に開設したのである。
しかもまだ全国的にも図書館という存在自体が珍しい時代のことである。
日露戦争開戦前1903年(明治36年)当時、本は庶民にとって非常に高価で貴重なものであったので本を所有して読める人は限られていた。
現在のように多くの自治体が税金を投じて図書館を造って市民の誰でもが気軽に閲覧できる時代ではない。
わずかに官立・私立大学の中にある図書館のみが多くの蔵書を抱えていた唯一の場所であり当然のことながら教授や大学生以外は閲覧の自由は無かった時代である。
そのような時代に巨額な私費を投じて子弟の教育を重んじて図書館を創るあたりの頭脳のレベルは当時の秀逸な人物と比べてもやはり源太郎は頭ひとつ分上を行っていたようである。
とはいえ図書館の設立と一口に言うものの、建設費用や蔵書購入費用など相当費用がかかるものであるが実際のところは現太郎はこの財源をどのように捻出したのであろうか。
当時孝明天皇の皇后が崩御されたおりに陸軍次官であった源太郎は葬儀委員の大任を任された。
葬儀当日はすべての警備に問題も無く執り行うことができた。皇室はその御礼として金一封を源太郎に下賜したのであった。
この皇室からいただいた金一封に自分の財産をつけ足して「児玉文庫」の建築費1200円あまりを捻出したのである。
図書館の設立場所は父親の蟄居事件以来他人のものになっていた自分の生家であった土地を買い戻している。このあたり源太郎の生誕地への愛着とこだわりを感じる。
かくして図書館の場所と建物は確保したのであるが文庫創設当初の蔵書の入手に当たっては源太郎は自分の知人、友人の有識者たちに「児玉文庫」への寄付を依頼した。その結果、桂太郎、寺内正毅などの同郷人や新渡戸稲造、後藤新平などの名前が本の寄贈者として挙げられている。このことはいかに自分の意見に同調してくれる友人や知人が多数いたかということを雄弁に物語っている。
「児玉文庫」設立2年後には蔵書数は約8000冊を数え、そのジャンルも源太郎の趣味であった世界中の地理・歴史書が多く占めていたようである。
また当時の時事を早く知るために地元の新聞社を含む10社の新聞を常に読めるように考慮したという。
他の誰よりも先取りした情報収集というDNAがここでも顔を出している。
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