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児玉文庫 2
また文庫の閲覧者も年齢性別の区別無く勉学を志す人間であれば誰にでも門戸を開き、全国でも珍しい館外への貸し出しも行われるようになった。
当時貴重であった本を誰にでも無料で貸し出すリスクを敢えて源太郎はとったのであった。
この児玉文庫のおかげで徳山近隣の勉学に励む人たちが享受した恩恵ははかりしれないものがあるだろう。
「児玉文庫」創設後3年目に源太郎は日露戦争の激務が原因で急死するのであるが、彼の「本を通じての師弟教育」の意思はそのまま徳山市民に受け継がれてさらに全国からの寄付等によって蔵書の数は毎年増え続けていった。
このような特異な経歴を持つ図書館は全国でも非常に珍しい。
その後明治の末には蔵書数は19000冊になり大正末には28000冊、太平洋戦争が始まる前年には43000冊にまで増えていった。
このことはまさに故・源太郎の意志を尊重して寄付した友人や有識者の数とその蔵書とDNAを大切に守った徳山市民のおかげであろう。
「児玉文庫」は館外貸し出しというサービスのほかにも文庫に来れない遠方の人々に対して地方に出向いての巡回文庫サービスを行った。
また本を読む場所という図書館本来の機能だけでなく発表会や展覧会、児童会などの多目的なイベントを定期的に開催して徳山の郷土の文化発展のための総合教育施設としても大いに利用されたのである。
しかし残念なことに昭和に入り太平洋戦争の終戦間際、1945年7月26日に米軍は日本海軍の息の根を止めるために「東洋一の燃料庫」である徳山海軍燃料廠の絨毯爆撃を行った。
雨のように降り注いだB29からの爆弾は目標の海岸沿いの燃料タンクや工場施設以外にも無差別に多数徳山市内に散布され、50000冊以上の蔵書を抱える児玉文庫を含む住宅街はたった一日の爆撃で灰塵と化してしまったのである。
まことに勿体無い話である。
しかしこの児玉文庫の設備、蔵書、理念の消失を惜しむ市民の声が集いその後は徳山市立図書館設立に結びつき現在の周南市立図書館へと受け継がれていくのであった。最近では有名書籍店と組んで新幹線徳山駅構内におしゃれな図書館として大変貌を遂げている。
余談ではあるが市内には県立徳山高校という県下でも有名な進学校がある。
山口県内でも他の都市の高校を差し置いて全国高校偏差値トップ100にランクインする名門校であるが現代の徳山市の学生の教育水準向上に源太郎の創設した児玉文庫の存在は無関係ではないと考える。
ここでは是非「図書館を作った陸軍大将」としての児玉源太郎の側面を記憶にとどめておいて欲しい。
ちなみに明治期の陸軍大将で戦後地元の子弟の教育に専念した人物がもう一人いる。
「坂之上の雲」でも有名になった伊予・松山の秋山好古陸軍大将である。
彼は日露戦争後多くの将官たちが軍内に残る中で陸軍大将という階級をいとも簡単に捨てて故郷である松山に帰り北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長職として毎日勤務したのであった。
秋山は元陸軍大将とは思えないほどの温和な態度で全ての生徒に接したと伝えられている。
また学校までの通勤には毎日の軍馬に乗って通ったらしい。
奉天大会戦で一緒にロシア陸軍と戦った二人であるが地元の子弟の教育に関する考え方は児玉と秋山には一種通じるものを感じる。
ちなみに1883年(明治16年)秋山が陸軍大学校1期生で入学した時には現太郎はすでに大学校長の職であった。
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