第八話 二人の時間

3/3
前へ
/66ページ
次へ
 価値など分からない。命の意味など分からない。  私の内には何もない、空っぽだ。  ただ傷があるだけだ。  彼女を求める渇望だけが、私を確かなものにしてくれる。  彼女の側に居たい。永遠に、彼女と共に。  飼われてから、私はずっと彼女に恋をしていた。それが心の深いところで、恋は愛に変わった。  魂の奥深く、自分を満たす。この世の秘儀、秘密の温かさに私は触れた。  私は暗唱を最後に締めくくった。 「愛する者がいなくなったら  この荒涼たる世の中で  誰が一人で生きられようか……?」  以前、私がまだ一人だったころ、私は彼女のことを夜会で少しだけ見かけたことがある。  欧州の社交界の、いつも華やかな場所で人に囲まれている彼女は、私からは遠い存在だった。  私は莫大な遺産こそあれども、人を避けていた。  賑やかさに加わらないで、夜会でも静かにアルコールを飲んでいるのが好きだった。  彼女は皆に愛され、人の輪の中心だった。  周囲の男たちが彼女を称賛するのも耳障りだったし、男性を虜にする、彼女の魅力をふしだらに思った。  私の母のようなか細い可憐さなど、みじんもない女性。  私は間違えていた。多くのものを、見ようとしていなかった。  数多くの扉の向こうには、救済が隠されていても。  いままで私はその扉を開けようともしなかったのだ。眼をそらして。顔をそむけて。  逃げていたのだ。私は。  愛されることから、傷を癒すことから。 ────────── (引用:トマス・ムーア「夏の名残の薔薇」アイルランド民謡より )
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

53人が本棚に入れています
本棚に追加