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第二話 母ステラの恋
母はいつも酒に酔っていた。そしてたまに部屋でピアノを弾きつつ歌っていた。淡いクリーム色のドレスを着て、それは美しい歌声で。金の長いまつげを閉じ、手を鍵盤に走らせる。
私は彼女が酔って上機嫌なときが好きだった。そのときだけが、母が私に優しくしてくれるから。いつもは私を無視したりうとましそうに見る母が、私に微笑みかけ、抱きしめ、愛していると告げることすらあった。
酒に浸っていても、彼女の歌声は損なわれることはなかった。彼女が恋の歌を歌う時は、本当に音楽の天使が舞い降りたように、幼い私は感じていた。
「知っていて? 私、ブルックリンの酒場で歌手をしていたのよ。歌って、ステージから聞く沢山の拍手! どんな宝石でも負けないくらいの、まばゆい日々だったわ。私がいて、彼がいたわ。ああ、もう一度あの頃に帰れたら。私、自由だったの。幸せだったわ」
ピアノを弾きながら、母の目は過去をうっとりと見ていた。側にいる私のことはあまり見ていなかった。
自分の父は、どんな男だったのだろう。母に尋ねたかったが、それは出来なかった。口にしてはいけないような気がしたからだ。
以前、母の演奏する曲の内容をめぐって、祖母と母が激しい喧嘩をしているのを見たことがある。祖母はビゼーのカルメンを娼婦のふしだらな曲だとなじり、母に歌わないように命令した。母は楽譜を祖母に叩きつけ、怒りのままに、カルメンのハバネラをピアノで深夜まで弾き、歌い続けた。
「カルメンはジプシーよ! 恋は野の鳥、誰も手なずけられない!」
それ以来、祖母は母のピアノ部屋に決して来なくなった。
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