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母がピアノ部屋で歌う間、私と二人の時間があり、秘密のことを話せるのはそのときだけだ。
あるとき私は母のピアノの側に立って、母を眺めていた。彼女はものうげに静かなソナタを弾いていた。椅子に深く腰掛け、ややうつむき気味に、心を現実から離れたように演奏している。
そして、子供の私が口走ったのは、長く決心したことだった。
「お母さん、僕と一緒にこの家を出よう。この家に閉じこもっていても幸せになんかなれない。僕たちは、この家にいるべきじゃないんだ。だから、一緒にブルックリンでも、どこへでも行こう」
はっとした顔で、母は私を振り返った。信じられないものを見る目。私を通して、私ではない誰かを見ている。
ふいに母は悲し気な顔になり、ピアノを弾く手を止めた。側にいた私を抱きしめ、すがりつくようにして言った。
「出来ないわ。あなたの父親は私たちを迎えに来るわ。だって彼はそう言ったのだもの。別れ際に、必ず迎えにゆくって。だから私はこの家で待つの。そうじゃないと、あの人は私を見つけられなくなってしまう」
大富豪の生活よりも、貧しいブルックリンでの日々の方が、母には輝いて見えたようだ。
私は母を幸せに出来たのだろうか。否。出来なかった。
酒びたりの母も、私をうとむ祖母も、私と心で深く繋がることはなかった。
育ててもらったことに感謝すべきなのだろうが、私からは少しばかりの同情しかできない。大理石の家に閉じ込められたような、孤独な少年時代を送ったのに変わりはないのだから。
私は育つと寄宿舎に入った。肝臓を悪くして母が他界し、祖母が持病の悪化で亡くなったのを知ったときは、正直に言うとほっとした。
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