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一杯付き合えよ、というから、てっきり酒だと思ったら、連れて行かれたのはコーヒーショップだった。
倉庫のようなコンクリート打ちっぱなしに白を基調とした内装が若者に人気の店だ。映えなパンケーキなどで若者を呼びながら、ここもスペシャリティコーヒーを出している。
ふたりはカウンター席に並んで座った。
運ばれてきたコーヒーに口をつけ、倉吉は瞑目する。
「……甘みが強い。それに透明感がある。この感じからいうとイエローハニーだな。ってことはコスタリカの豆だ」
おまえも飲めよ、と勧められ、呆気にとられながらも諒は店のロゴが浮き出しにされた白いマグに口をつけた。確かに、倉吉の言った通りの風味がある。
「驚いたか? 俺も、コーヒーの味はわかるほうだ。好きだからな」
「じゃあ、なんでうちのコーヒーをまずいなんて」
味覚は人それぞれとはいえ、ここのコーヒーと同等なはずだ。
訊ねると、倉吉の表情から、さっきまでの得意げな色が消えた。
「……だ」
「はい?」
柄にもなく小さな声は聞き取れない。
「……天性なんだ。だいたい第四週くらいに、味覚が鈍くなって、なにを喰っても味がよくわからない。終わりかけだし、いけるかと思ったらやっぱりだめで……だからまずいと」
「そう……なんですか……?」
最初の性交で失われるという微妙な性質上、天性についてはよほど親しい間柄でなければ訊ねない。だから全部で何種類の症例があるのか、誰も把握していない。
おれは味覚が鋭敏になるんだから、その逆もいても不思議じゃないか――諒は頭をめぐらせ、はっと気がついた。
「え、ってことは倉吉さんは、ど」
「……!」
言いかけた言葉を一ミリも漏らすまいとするかのように、大きな手で口元を覆われた。
がたいのいい男がカウンター席でそんなことをしていれば目立つ。目で必死に「放して」と訴えると「それ以上口にするな」と目で返された。かくかく、と無言で頷いて、やっと解放される。
ふうと、ひと息つき、あらためてまじまじと見つめてしまう。
この自信たっぷりに見える色男が、ど……むにゃむにゃ?
「あの店の華道教室にうちの母が通ってる。で、それを送っていくとだいたい『ちょうど知り合いの娘さんが来てるから、お茶でもしてったら』と言われるんだ」
「それってつまり……お見合いみたいな……」
祖母の店でそんなことが勝手に行われていようとは。
倉吉は弱り切った表情で頷いた。
「中・高校生の頃から、この天性がデートに当たったりすると、苦労させられてきた。だいたいデートと言ったらランチでうまいものを食べながら楽しく会話したいと思うのが人情だろう」
なにしろ倉吉は顔がいい。当然モテた。同時期に複数から告白されるのも珍しくなかったという。すると彼女たちは競って自分おすすめのカフェなどに倉吉を連れて行ってくれる。
美味しいでしょう、センスがいいでしょう。こんなお店を知ってる私、どう? と。
だがしかし、なにを口にしても味を感じない倉吉にとってそれは拷問のようなものだった。
整った倉吉の造作に、深い深い影が差す。
「味がしないパンケーキっていうのはな、美山。こう……スポンジにどろっとした洗剤がかかってるのを食ってるみたいなもんなんだよ……」
「……想像するだに恐ろしい……」
そんなこんなで倉吉はデート恐怖症になった。
もちろん天性以外の週は問題なかったのだが、やがて「倉吉くんは私たちみたいな小娘は相手にしない」「どこぞのマダームと高級料理ばかり食べているのだ」などという噂が一人歩きし始めた。
あとはもう、諒と同じ道だ。この苦しみをわかち合う相手を見つけられないまま、この歳まで未経験できてしまった。
勝手にセッティングされる見合い相手ならなおさら、初対面でそんなことを言えるわけもない。だいたいは「あなたせっかく私が気を利かせてあげたのに、ずっとつまんなさそうにしてたそうじゃない」と母親から小言をくらって終わるらしい。
気づいたら諒は、そんな倉吉の手を両手で握りしめていた。
「わかります!!!!」
それから諒は、自分は倉吉とは逆に味覚が鋭敏になること、そのせいで実母ともちょっと微妙だった時期があること、そしてやっぱり女性に縁がないこと、などをまくし立てていた。
倉吉の顔にみるみる驚きが広がり――やがて、喜びに変わった。
「マジで?」
エリート然とした顔から素の呟きがこぼれ落ちたとき、諒の胸はなんだか満たされていた。
同じ苦しみを知る奴と知り合えた喜びはもちろんある。
が、なにかそれ以上の感覚があったような気がする。
体のどこか奥深いところにぽっかり空いていた穴にぴったりはまる、大切なピースが見つかったかのような。
ぎゅうっと力任せに握ってしまっていたことに気づき、諒は手を放した。
「えっと、でもおれはまあ、美味しいものは味わえますし、祖母の手伝いにも役立つけど、倉吉さんはほんとうにつらいですよね」
洗剤のかかったスポンジなんて、死んでも口にしたくない諒である。
だいたいきつめに当たってしまったのは、いかにも男らしくエリート然とした倉吉に男として嫉妬めいたものがあったからだ。つまりやっかみ。
「どんな人にも事情があるものよ」――祖母にいつもそう言われているというのに、これは良くない。
諒は一旦スツールを下りると、腰を折った。
「そうとも知らずに怒ったりして……すみませんでした」
「いや、まあ、普通わからないことだし。マイナスばっかでもなかったよ。――俺の場合は」
「え?」
「いや、まあ、とにかく顔上げてくれ。ーー今度天性じゃないときにお祖母様の店にお邪魔して、ちゃんと味わうよ」
「じゃあ予定合せておれも行きます。とびっきりのいれますよ」
生まれて初めて同じ苦しみを分かち合う仲間に出会った。それも男性同士なら、女性に話すよりは気後れしない。初めは不愉快な思いから始まったが、今や神様に感謝したい。
未だに天性喪失していないという負い目のせいもあり、諒は男友達も多いとは言えない。倉吉のような男から見ても男前の知り合えば、モテテクなども教えてもらえるかもしれないではないか。
諒の言葉に、倉吉は「ああ、頼むよ」と嬉しそうに目を細めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「絶対きてくたさいねー! 約束ですよー!」
まるで子供のように手を振る諒を見送って、倉吉も帰路につく。その足取りがいつもより軽くなるのを自分でも感じていた。
最近でさえ母が強硬な手段に出てきて辟易しているが、学生時代など、実は助けられてもいたのだ、この天性には。
おかしな噂が出回ったせいで、女性から誘われなくなった。
それは女性が恋愛対象ではない倉吉にとって、好都合でもあったのだ。
今までぴんとくる相手がおらず、男とも経験がないまま社会人になった。仕事は充実していて、恋愛は後回しになっていたのだが。
『わかります!!!!』
誰かにあんなに情熱的に触れられたのは、いつ以来だろう。
いや下手したら初めてか?
祖母の名誉のために、薄い肩をめいっぱい怒らせてキレちらかす姿。
自分に非があると思えば、心から謝る素直さ。
気がつけば倉吉の頭の中は諒が見せるさまざまな表情でいっぱいだ。
おまけに共通の秘密を持つ仲間。このアドバンテージは大きい。
――あんなに可愛いのに、今まで誰にも喰われなかったって、ほとんど奇蹟だな。
倉吉は生れて初めて神に感謝して、諒の祖母の店に行ける日を指折り数えた。
コーヒーと彼とを、美味しく味わえる日を。
〈了〉
210712
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