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めいっぱい愛しあった日の翌朝。
まどろみの中で思うのは、泣きたくなるほどの幸せと、胸の奥につき刺さる棘に似た罪悪感。
朝、好きで好きでたまらない君と別れて、職場でまた顔を合わせなければならない。なんでもないふりをして。
生々しい情事の匂いを消して、昼間の光を浴びて笑う。そんな欺瞞の日々を、99%の痛みと、1%の優越感でやり過ごしてきた。
君が好きだ。
たまらなく好きだ。
だから今日、この家を出る。
今月いっぱいで退職することは、同僚や皆には伏せておいて欲しいと頼んだ。理由を聞かれたら、たまらないから。誰にも、知られたくなかった。
私一人が消えてしまえば、いい。
すべてが丸く収まるんだ。
昇ったばかりの朝日を浴びたくて、外へ出た。部屋には夕方までに戻ればいい。引越し業者はすぐに、すべて運び出してくれる。
ゆっくりと吐きだした息が白くたゆたう。
もう、こんなに冷える日は最後だろう。ぷっくりと膨らんだ桜のつぼみは、ほのかに色づいている。
目覚めたばかりの街は、すぐに人の波に埋まるだろう。学校は春休みでも、社会人には普段通りの平日だ。
駅から遠ざかるように、ぶらぶらと歩きだした。
この街も、今日でさよなら。
もう二度と来ることはない。
ここの桜並木が満開になるのを、私は見られない。
犬を連れた老人が、怪訝な顔で私を振り返る。あわてて、手を添えて口元を隠す。泣き笑いみたいな変な顔になっていたらしい。
誰もいない交差点で律儀に信号を守って、ゆるやかな坂道をくだっていく。
人のいないところを求めているうちに、小さな川にたどり着いていた。橋の欄干に肘をついて、深々とため息をつく。
地図では知っていたけど、一度も来たことがなかった。昨日も一昨日も穏やかな晴れだったのに、川の水は少なくない。はるか遠くに見える山の雪解け水でも流れこんでいるのだろうか。
河川敷の向こうには、サッカーゴールも見える。
胸の奥を鷲掴みされたように苦しくなる。
君がシュートを決める姿を見て、私は恋に堕ちたのだ。
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