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固く握りしめた大地の拳は、青筋が浮いている。唇が震えているのを、私はどこか他人事のように思っていた。
「渡部に、あいつと、まさかっ……なあ、薔子!」
そのまま、私を責めればいい。ひどいって、裏切りだって、言えばいい。
そうすれば、君は私から離れていける。
「許さねえ! あの野郎、ぶっ殺してやる!」
「大地……?」
私に向けて振り下ろされると思った拳は、そのまま力なく垂れ下がっていた。
「脅されたんだろ? 俺とのこと、バラされたくなければ、言うとおりにしろって」
嗚呼。
なんて、勘がいいんだろう、君は。世の中のことなんて、なんにも興味がないという顔をしながら、誰よりも敏感に私の気持ちをくみ取ってくれる。
そんな君に依存してしまう自分が、心底、嫌になる。
十も下の教え子を、一人の男として、愛してしまった自分が。
「ごめん、薔子……」
君は、肩を震わせて泣いていた。喉の奥から、苦しげな嗚咽が聞こえる。
「俺のせいで、俺なんかのせいで、ひどい目に遭わせて。なんて言ったらいいか。俺は、どうやって償えばいいか……」
こんなに素直でまっすぐな君に、嘘なんてつけるはずもない。いくら私が駄目な教師で、駄目な女でも。
「大地。違うの。渡部先生とは、なにもなかった。黙っていてもらうために、私から辞めるって言ったの、だから」
「けど、言いふらされたくなかったら、やらせろって脅されたんだろ?」
君の声があまりにも冷たくて、私の舌はカラカラに干からびたように張りついている。
「俺は、なにを言われても平気だ。けど、薔子を泣かす奴は、絶対に許さねえ。ふざけたこと抜かすんかなら、夜道で待ち伏せして、切り刻んでやる」
「やめて!」
大地の人生を、こんなつまらないことで、台無しにするわけにはいかない。
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