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最後の時間
「好きだ」
そう言いながら俺は、自分の身体に遥香の感触を刻み込むかのように強く抱き締めた。
しかし、遥香は何時ものように、抱き締め返してはくれなかった。
夜明け前の一時。
それが俺に許された最後の時間。
「好きだ。愛している」
遅すぎた気持ちの告白を、何度も何度も耳元で囁く。
もっとたくさん伝えれば良かった。
付き合っているのだから言わなくともわかっているはずと、気恥ずかしさから疎かにしていた。
だが、気持ちというのは、理解しているかどうかではなかった。
溢れ出る思いを、言葉にすること自体に意味があったのだ。
好きだと告げられる幸せを、俺は時の流れの中で忘れていた。
付き合う前は、伝えられないもどかしさに、叫び出したいぐらいだったのに。
「愛している」
遥香は無言のままで、応えてはくれない。
遥香から何の反応がなくとも、俺はそれで満足しなければならなかった。
抱き締めたまま身体を少し離し、遥香の顔を見つめる。
「俺のことはいつか忘れて幸せになってくれ」
俺のことを思ってこの場所に来てくれた。
その事実だけあれば、俺はいくことが出来る。
未練など、露ほども残してはいけないのだ。
「今までありがとう」
俺のその言葉に呼応したかのように、遥香の頬を涙が伝う。
涙を拭おうと、そっと指で頬に触れたが、そんなこと出来ないのだと思い出し、手のひらで片頬を包むだけにとどめた。
遥香の涙が頬で煌めく。
夜明けの光が涙に反射したのだ。
街並みの向こうに連なる山々に顔を向けると、山の稜線がうっすらと明るくなりつつあった。
「さよなら。俺の愛しい人」
最後にまた強く抱き締める。
山より顔を出した朝日が辺りを照らし、光線がキラキラと二人を包み込むと、俺の身体が薄くなり始めた。
溶けるように消える身体で、俺はこの世の終わりに全てを込めた口付けを遥香へ残し、端からなくなる感覚を自覚しながら遥香に微笑んだ。
そして、遥香の姿を記憶に焼き付けながら、俺は光の粒となって空へとのぼっていった。
end
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