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20年前、山縣有朋記念館に行った日
私が山縣有朋記念館を訪れたのは、開館から数年が経った1990年代後半であったと思う。
当時の私は学生でお金がなく、横浜から湘南新宿ラインで宇都宮まで行き、そこから宇都宮線で矢板駅まで行った。
鈍行で行くため、片道だけでも3時間近くかかる。
私は山縣有朋記念館に行くためだけに、1日を費やすことを覚悟して横浜を出て、お昼頃に矢板駅に降り立った。
栃木には子どもの頃から何度も旅行に行ったことがある。
日光、湯西川、鬼怒川、那須高原……いずれも名所名跡があり、風光明媚な地であり、温泉もあり、楽しかった。
ただ、矢板という地はそれまでずっと素通りしていた。
この矢板という場所とその近辺に意識が向いたのは、明治時代に興味を持ってからだ。
だから矢板駅に降りるのは初めてだったし、昭和レトロな雰囲気漂う駅の周りを歩きたかったが、なにぶん時間がないので、急いで記念館に向かうことにした。
山縣有朋記念館に近いバス停まで行くため、矢板駅からバスに乗りこむ。
横浜市営バスは一律料金のため、別の地方のバスに乗ると、ちょっと緊張した。でも、運転手さんも他の乗客もあまり急ぐ様子が無かったので助かった。
バスの窓から外を眺め、初めて見る矢板の景色を堪能しながら、私は明治の頃の栃木県北部のことを考えた。
明治20年頃、栃木県北部の那須野が原は、多くの華族が土地を買い、農場・牧場経営を始めていた。
山縣の元主家である毛利家の毛利農場、旧大垣藩主が作った戸田農場、ドイツ公使をしていた青木外務大臣の青木農場、これらが黒磯や那須塩原に開き、西那須野には薩摩の三島通庸が開いた三島農場、他にも良い土地には薩摩の松方正義や大山巌や西郷従道、佐賀の佐野常民の佐野農場などがあった。
そんな中、山縣は華族農場の波に乗り遅れ、すでに平地は別の高官たちに抑えられてしまい、開発の難しい矢板の地を買ったと矢板に来る前に本で読んだ。
陸軍軍閥の首魁として、軍事だけでなく、政治にまで大きな影響力を持ち、どのような場所へも目を光らせていたと思われがちな山縣だが、こういうところは意外に抜けていたのではと思うと、ちょっとおかしかった。
「わしは一介の武弁である」と山縣は語っていたそうだが、蓄財に長けているように見えて、そんな面があったのかもしれない。
バスの窓から見える矢板の地は開発しづらいという風には見えなかったが、これも山縣の農場開発があった結果だろうかと想像する。
そして、そんな開発が大変な中、開かれた山縣農場とはどんな場所で、山縣有朋記念館はどんなところにあるのだろうと考えてた。
この時、まだ私は自分に起こる悲劇を想像していなかった──。
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