20年前、山縣有朋記念館に行った日

2/9
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 現在『山縣有朋記念館前』というバス停があり、市営バスの泉線・長井線でJR矢板駅から30個目のバス停で降りると、山県有朋記念館が近くに着くことができる。  ところがその当時、まだバス停が無かったのか自分が間違えたのか、記憶がさだかではないが途中でバスを降りて歩くことになった。  今の矢板市立郷土資料館、当時はまだ上伊佐野小学校という学校だったと思うが、そこから山縣有朋記念館まで歩いたように記憶している。  そこまで大した距離でもないし、そもそも横浜は坂の多い街で歩くのは慣れているのだが、知らない土地なので緊張した。  道の両側には青々とした田んぼがどこまでも広がっていて、世紀末だったこともあり、ミステリーサークルがありそうな田んぼだなと思いながら歩いた。  少し遠くには林檎かなと思うような木があった。  この矢板の林檎と山縣有朋の関わりは後に知ることになる。  ずっと歩いても基本的に風景が変わらない。  自分の家の近所に田んぼはないので、新鮮な景色ではあるのだけど、ずっとまっすぐ歩ているので、これでいいのか不安になりながら、山に向かった。  山県有朋記念館は山の中にあった。  山を背にして記念館が建っているのだ。  もっとも街中に住んでいる人間の感想なので、山に慣れた人からしたら、大して山ではないと思うのかもしれない。  慣れない道のせいか歩いている時間が長く感じ、赤い屋根の白い建物と白い屋根の青い建物が並んで建っているのを見たときはホッとした。  時計を見るとまだ夕方前で、閉館時間まで時間があるので、ゆっくり見る時間もありそうだった。  瀟洒(しょうしゃ)な歴史ある建物は木々に囲まれていて、田園の広がる場所に突然現れる洋館ということで、推理小説に出てきそうな雰囲気だと感じながら、私は記念館に入った。  記念館のパンフレットはオシャレなデザインで、それを受け取り、二階に上がった。  二階にある客間は山縣が明治・大正期の元老や重臣たちと面会したサロンで、カーテンも絨毯も椅子も当時の面影を色濃く感じられた。  青い洋館は古稀庵(こきあん)といい、小田原から移築されたもので、明治神宮や築地本願寺を手がけた明治・大正・昭和期の建築家・伊東忠太が設計したものである。  かつて小田原にあったときは客間の窓から相模湾が一望できたのだという。  明治後期になると、山縣有朋は『小田原の大御所』として、東京には戻らず、この古稀庵に住み続け、たくさんの政界関係者が古稀庵を詣でたのだという。  その古稀庵詣では山縣の威光を示し、伊藤博文の子飼いの部下である伊東巳代治は、それを「山県式」と呼んでいた。  山縣はきっと相模湾の見える部屋で、教科書に載っているような重鎮たちと国事について話し合ったに違いないと思うと夢が膨らんだ。  展示物には明治天皇陛下から拝領したものや将官服、奇兵隊時代のものなど幕末から明治大正にかけての山縣有朋に関する資料が豊富に展示されていた。  当時はまだ山縣有朋博物館は私設の歴史博物館で、案内の方に山縣有朋の子孫の方がやっているとお聞きした私は、お会いしたいとお願いした。  約束もなくそんなことを言い出す物を知らぬ学生で、今考えると大変申し訳ない気持ちしか浮かばないのだが、横浜から来たという私に同情してくださったのか、会って下さり、お話をしてくださった。  何分、かなり昔のことなので、不確かな記憶で申し訳ないのだが、この方が山縣睦子さんであったと思う。  山縣有朋は七人の子供が産まれたが、次女以外は幼くして亡くなってしまい、姉の子である伊三郎を養子にした。  山縣は軍人であったが、伊三郎は内務次官などの官僚・政治家の道を歩き、逓信大臣となった。  山縣公爵家は伊三郎の子、有道に受け継がれ、その後、子どもの有信が山縣家を継ぐ。  有道はドイツに留学し、大学で林業を学び、山縣始めた山縣農場を継承する。  山縣有信は海軍に入り、公爵を襲爵し、戦後、山縣農場の経営に取り組み、昭和38年には矢板市長になった。  三期務めるが、その三期の途中で脳出血で倒れ、それまで農場経営に何も関わったことが無い睦子氏がいきなり農場経営を任されることになったのだという。  山縣農場は名前こそ農場だが、山縣有朋は農場に応募してきた小作人たちに少しずつ農場を払い下げており、昭和9年には農場開設50周年を記念して、小作人たちに土地を分譲して、自作農にしていた。  そのため、残っているのは森の木々だけで、現在は林業が主だと話していらっしゃった。  突然何の知識もなく任された森林経営のこと、日本の林業が危機にあること、森林維持の大変さや大切さなどをお話いただいたように記憶している。  貴重なお話を聞かせていただいた。  私はそれからまたバス停まで歩き、全然来ないバスを待ち、矢板駅から3時間かけて横浜に帰り、横浜に着く頃にはもうとっぷりと暗くなってしまっていた。  本当に山縣有朋記念館に行くためだけに一日を費やした日だったが、その旅路はとても満足で、いい思い出になっている。  まちぶんのイラストを見た時、ああ、これは懐かしいと感じた。  20年近くが経った今も持っている山縣有朋記念館のパンフレットにある2階の客間の絵だったからだ。  “那須野が原開拓浪漫譚”という華々しく、かつ、文化的なものに叶う文章が書けるか、私の筆力では心許ないが、当時のお礼の気持ちを込めて、明治時代の那須野が原について書いていきたい。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!