20年前、山縣有朋記念館に行った日

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 明治2年6月。  山縣有朋(やまがたありとも)は西郷隆盛の弟、西郷従道(さいごうつぐみち)と共に船で欧州に旅立った。  ヨーロッパ各国の軍事制度を視察、研究するためである。  まだ箱館戦争が終わったばかりで、国内が安定しない時期だったが、大久保、木戸、西郷が健在であり、軍には大村益次郎もいた。  日本の軍隊を、そして、何より明治政府を安定的なものにするため、若い軍人がいち早く海外で学ぶ必要があり、山縣と従道は岩倉たちに先んじて海外に出て、欧州の軍制を学びに行くことになったのだ。 「欧州とはどげん場所とかね」  船に乗る従道の瞳が輝いている。  すでに40代になっていた兄と違い、従道はまだ26歳と若く、遠い異国に胸を高鳴らせていた。 「わかりませんが、きっと本では見られぬ様々な知識を得られると思います」  朴訥な山縣は面白みのない返事をしたが、従道はまったく気にしなかった。 「成程、成程。やはり書物だけでは見られるものもありもそうな」 「そうかと思います」  年下の従道にも山縣は丁寧に接した。  長州の中には薩摩人を嫌うものも多い。  禁門の変での恨みや、多くの犠牲を払った長州に比べて、薩摩は後になって美味しいところを取っただけではないかという思いがあるからだ。  だが、山縣はそういうところはなかった。  むしろ、従道の兄である西郷を尊敬しており、西郷も山縣を買っていた。  戊辰戦争の時に薩摩兵と長州兵がうまくいかず、山縣も薩摩の黒田清隆と対立して一時は参謀を辞めるなどしたが、そのとき、西郷が自ら山縣の所に来て慰撫してくれた。  後に、長州派のトップである木戸が山縣の登用に慎重なのに比べ、西郷は山縣を庇い、引き立ててくれることになる。  徴兵令の時にも西郷は山縣の考えを支持してくれたし、陸軍の公金を使った汚職事件・山城屋事件で山縣が薩摩系将校に責められたときも西郷は山縣を庇った。  西郷は山田顕義の用兵の才を買っていたことで有名だが、山縣のことも軍政面で買っていたのかもしれない。  まだ見ぬ欧州の話をしていた二人だったが、山縣が不意に海に視線を落とした。 「あまり元気がないようにお見受けしもすが、船は苦手と?」 「いえ、時山も生きていれば、共に欧州を見れられたかと考えまして……」  一年ほど前、山縣は北越戦争で親友である時山直八を亡くしている。  奇兵隊の参謀であった時山は、朝日山の戦いで陣頭に立って指揮をしていたが、東洋一の用兵家と言われる立見尚文率いる桑名藩兵と戦い、命を落とした。  顔面を撃ち抜かれての即死であり、戦場の最前線で指揮官が死んだため、奇兵隊士たちは成すすべもなく、ただ時山の首だけを掻き切って持ち帰るのが精一杯だった。  山縣は親友の首と対面し、衝撃のあまり奇兵隊を率いる立場と言うのも忘れ、その場で慟哭したという。  松下村塾で学び、早くから尊王攘夷運動に参加していた時山は友人が多く、品川弥二郎もその一人だった。  小藩の長岡藩に手を焼き、新政府軍の占領地を奪われ、それを取り戻す戦いで時山を死なせた山縣を品川は強く責めた。 「時山を殺したのはお前だ」  師匠である吉田松陰と同じく多感な性格の品川は、山縣をそう責めたが、山縣は何も言い返せなかった。  山縣が前線を離れた間に戦いが起こり、山縣は親友を守ることすらできなかったからだ。  槍で身を立てようと毎朝、槍の稽古を欠かさず体を鍛えていた山縣だったが、自らの研鑽が友人を守るのに一つも役に立たなかったのが大きな衝撃だったのかもしれない。  戊辰戦争が終わり、明治の世になっても、時山のことは山縣の頭にずっと残っていた。  亡き友を思う山縣の肩を従道はぽんと優しく叩いた。 「御一新の戦いでおいたちはたくさんの仲間たちを亡くしもした。だからこそ、欧州でたくさんのことを学び、良か国を作ることに尽力しもそう」  年下の従道の温かい言葉に山縣は静かに頷いた。  山縣は終生、親友の死を忘れることはなかったが、今の山縣はこの国のため進まなければならない立場にあった。  この時、山縣31歳。
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