20年前、山縣有朋記念館に行った日

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 渡欧(とおう)した山縣は、プロイセン王国で貴族が経営する農場を見た。 「これはまた……立派なものだな」  ドイツの地主貴族ユンカーは、領地の中に直営する農場を持っていて、そこに貴族自らも屋敷を構えて暮らしていたのだ。 「農奴制が廃止されたので、かつてのグーツヘルシャフトのような形ではなくなりましたが、今も資本主義的な『ユンカー経営』が行われているのですよ」 「きちんと賃金を払う形で貴族が経営している農場ということか」  案内をしてくれた者の説明を聞き、山縣は農場に目をやった。  このどこまでも広がる農場がすべて自分のものとはなんと豊かなことか。  山縣の尊敬するドイツの鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクも地方貴族ユンカーの出身である。  プロイセン東部のユンカー出身である鉄血宰相を思い浮かべ、豊かな田園の広がる中に屋敷を建てて暮らす地方貴族の暮らしに、山縣は自分を当てはめて考えたのかもしれない。  山縣は貴族どころか、足軽より下の中間という身分の出身であり、貧しかった。  今太閤と言われた伊藤博文も家が貧しく、生活するのも大変な状態だったと言われているが、山縣も近い状態だったと思われる。  そんな山縣からすれば、自分の土地と農場を持って、そこに邸宅を立てて優雅に暮らす貴族は、自分が欲しかったものすべてがそこにあるように見えたのではないだろうか。  だが、日本に帰国した山縣は兵部少輔に任命され、軍制改革に忙しく、そのような土地を拓く時間がなかった。  そのまま徴兵制や征韓論、大村益次郎の弟子である用兵の天才・山田顕義(やまだあきよし)との軋轢、そして、士族反乱、西南戦争と続き、息つく暇もなく、時が過ぎていった。  竹橋事件などの西南戦争後の暴動が落ち着き、やっと一息ついた頃、山縣は他の政治家・軍人が農場経営に乗り出していることに気づいた。  その頃にはすでに那須野が原のほとんどの平地が、旧藩主や他の政治家・軍人に抑えられていて、山縣は出遅れてしまった。  軍閥の首魁として、大正時代まで影響力を持ち続けた山縣であったが、必ずしも立ち回りがうまかったわけではない。  この時も出遅れて、同じ長州閥である井上馨にそのことを嘆いた。  井上は山縣の嘆きを、ふんふんと頷いて聞いた後、思考を巡らせた。 「那須野が原の開拓か。前に渋沢も牧場経営をしようと手を出そうとしたが、うまく土地が手に入れられなかったと悔しがっていたな」  渋沢とは渋沢栄一のことである。  井上は三井財閥の益田孝、藤田財閥の藤田伝三郎、筑豊の炭坑王・貝島太助など数々の財界人と懇意していたが、特に渋沢は右腕として絶大な信頼を置いていた。  お神酒徳利である伊藤博文を除けば、井上と最も親しかったのは渋沢だろう。  そこまでの深い関係であるから、情報に間違いはないはずだ。  山縣は井上に渋沢がうまくいかなかった理由を尋ねた。 「どうして渋沢は開拓がうまくいかなかったのだ?」
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