20年前、山縣有朋記念館に行った日

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 後には公爵、陸軍元帥となる山縣だが、その生まれは伊藤博文と同じく低かった。  武家に奉公する中間の家の長男で、足軽以下の身分として生まれた山縣は槍の稽古に励む傍ら、苦しい生活を強いられた。  薪や草を手に入れているために使っていた入会地が、誰かの財産区になってしまい、入れなくなったら困るのが良くわかる。 「落ち葉でも薪でも草でも、これまで通り山に入って取って良いという約束で地域住民を説得してみよう」  山縣は地元住民の同意を取り付け、那須野が原西部に隣接する伊佐野の地に伊佐野農場を開いたのである。    明治19年に伊佐野農場を開いた山縣であったが、山縣の手に入れた土地は他の政府の高官たちが手に入れた平地と違い、ほとんどが山林だった。  山縣は『山縣開墾社』を作り、開墾のための人員を募集した。  その募集にはある条件があった。 “土地を持たない農家の次男・三男”を、山縣は募集条件にしたのである。  今では考えられないことだが、明治の頃は長男と次男・三男では天と地ほどの差があった。  明治初期に長男相続制が規定され、それは財産のある家族や士族に限らず、平民も長男だけが家督を相続するものとされた。  つまりは土地も財産も家も、すべて長男が相続し、それ以外の兄弟は何ももらえないという状況なのだ。  兄弟格差は相続だけでなく、生まれたときから存在した。  長男は母屋で両親と暮らすのに次男・三男は寒い離れに住まわせられたり、次男・三男は給料のいらない労働力として家族ではなく人間以下の働き手としてしか扱われなかったりした。  『富国強兵』は明治政府の国策であり、その富国の基本となるのが、農業だと山縣は考えていた。  そのため、土地を持たない次男・三男を集め、日本の農地を広げようとしたのだと思うが、同時に山縣は生活が苦しく、扱いの悪い次男・三男を救おうとしたのかもしれない。  そんな推測をしたくなるほど、明治時代の地方の貧しい農家では生活が苦しかった。  婿養子になれた次男・三男や良い奉公先に恵まれた時はいいが、結婚のあてもなく、奉公先も見つからないときは悲惨だった。  村の余り者、家の厄介者として、親や長男どころか、長男の子供たちにまで冷たく扱われるのである。  そんな目に遭うくらいならと軍隊に志願入隊する者もいたし、酷い目に遭っても居場所のない実家に帰るよりマシだという者もいた。  栃木県内外から集まった応募者はきっと新たな働き先を喜んだのではと思っている。
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