20年前、山縣有朋記念館に行った日

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 明治19年頃、山縣は忙しかった。  日本初の内閣・第1次伊藤内閣の内務大臣として地方自治に尽力していたからである。  同時に陸軍中将として、軍拡を進めていたが、それは別の話に譲る。  ここではあまり日の当たらない山縣と地方自治に注目したい。  山縣は内務大臣に就任する前から、政府に地方制度に関する意見書を提出するほど、地方行政について熱心だった。  明治日本の人々は日清戦争が起こる前まで日本国民という意識が薄く、また、私擬憲法(しぎけんぽう)などがあったと言われるが、そのほとんどが政府高官や自由民権運動の活動家だけが作ったもので、市井(しせい)の人々は政治に参加するという意識が希薄だった。  その原因はこれまでの日本の歴史にある。  農民や商人は、大名など上の人々が戦争をするのを見ているか、その戦争が過ぎ去るのをじっと待っている立場だった。  政治も同じで上の人たちが決めたのを待っているのが常であり、自分たちが参加するものではなかった。  山縣は多くの日本国民に地方自治を通して、政治の仕組みを理解して欲しかったのではと思う。  その論拠(ろんきょ)として、山縣は伊佐野農場(いさののうじょう)の募集に応募してきた入植者たちに住まいを提供するだけでなく、入植者の子弟のための学校を開いた。  今でこそ義務教育は小中学校9年間しっかりあり、ほとんどの人が学校に通っているが、明治5年の学制から始まった義務教育の動きはなかなか効果が上がらなかった。  労働力である子供を連れて行かれたくない親の反対にあって就学義務が緩和されたり、明治33年になるまで尋常小学校の授業料が無償化されるまで授業料がかかったりなどいろいろな理由があったが、地方に教育の権限を大きく委ねた結果、学校が廃校になったり、経費削減のために学校建設が中止になったりして、地方では特に教育がなされていなかった。  しかし、山縣は労働力である入植者たちの子孫にも教育を施そうと学校を建設した。  山縣という男は面倒見の良い男で、細やかな配慮を怠らず、それが入植者と国民にも向いていたのではと考えられる。   もちろんそうやって国民を教育し、過激な自由民権運動だけではない政治家を作りたかったというのもあるだろうが、地方議会、市町村など細かな政治機関にも教育をされた人たちを行き渡らせて、政治家と地方を育てたかったのかもしれない。  この山縣の地方自治への熱意は空回りに終わるのだが、山縣は十年以上地方自治の育成に心を砕いた。  山縣が尽力したように、御一新で失われた自律的地方自治が明治の頃に息を吹き返していたら、今の日本の地方はまた違う形になっていたかもしれない。
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