20年前、山縣有朋記念館に行った日

8/9

18人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 話を地方自治から、山縣農場こと伊佐野農場の話に戻す。   山縣は開墾に応募してきた者たちを手厚く扱った。  先述のように学校を開いただけでなく、年36日、3年続けて農業事務所の賦役に従事すれば無償で土地を与えた。  そこは水田に適した土地も含まれており、山縣は入植者たちを自作農に育てようとしたのである。  他にも農林資材購入のための基金を作ったり、必要なお金を農場主が負担したりして、山縣は入植者たちの生活をまずは確立させようとした。  ただ労働力として使うのではなく、生活を安定させ、独立を促し、農場主との絆が出来てこそ、この未開拓の土地を開墾・造林する近道だと山縣は考えていたのかもしれない。  少し話が逸れるが、山縣は軍部にも政府にも地方にも山縣閥という大きな派閥を築き、周りにたくさんの人を置いて活動する人間と言われている。  しかし、御一新前の山縣の生活は寂しいものだった。  長男として生まれた山縣だったが、五歳の時に母を亡くし、父の山縣有稔は真面目な性格で国学と和歌を嗜む人だったが、その父も青年期に亡くなっている。  祖母が両親の代わりに山縣を育ててくれたが、祖母も入水自殺をしてしまい、山縣は家族の縁が薄い人生を送っていた。  真面目で朴訥そうなのに、注意深く猜疑心が強く、物に執着する性格だったのは、家庭環境が原因かもしれない。  だが、同時に面倒見が良く、一度縁を結んだ人間は面倒を見続けようとして、多くの徒党を組んだのも、また、この寂しい家庭環境が原因だったかもしれない。  伊佐野農場は開発の難しい土地ながら、山縣の手厚い保護もあってか、開発が進み、明治24年には早くも第1回目の小作地払い下げが行われている。  翌年の明治25年には久留里藩家老の子であった森勝蔵が山県農場へ管理者として赴任し、『伊佐野農場圖稿』という絵巻物を描き残している。    山縣自身はこの間、明治21年に欧州視察旅行に旅立ち、代わり行く欧州をその目で見てきている。  欧州で新しく目にしたものが山縣農場の経営に変化を与えていたかもしれない。  明治23年には現役軍人のまま第3代内閣総理大臣となり、帝国議会を無事に終わらせる。  教育勅語の発布、元老制度の確立と就任と立て続けに山縣は歴史に残る様々なことに関わり、明治27年には日清戦争に第一軍司令官として赴く。  この時、山縣はすでに56歳。  もしかしたら、この頃には東京を引き払って、那須野が原に落ち着こうと思う時期もあったかもしれない。  開墾が進んだ明治43年。  山縣は72歳の時に歌を詠んでいる。 『篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に』  かつては篠が生い茂っていた地が畑となり、造林が進んで整った山を見て、山縣はとても喜んだのだろう。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加