20年前、山縣有朋記念館に行った日

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 大正3年。山縣有朋は青森から技師を呼んだ。 「この地に合う苗木を考えて欲しい」  矢板の寒冷な気候を利用し、りんご栽培を広めようとしたのである。  この山縣の考えは当たり、矢板はりんごの産地になった。  他のりんご産地より南にある矢板では、降雪などの影響を受けず、木の上でりんごを完熟させることができる。  これは『樹上完熟』と言い、現在の矢板でも様々な種類のりんご狩りを楽しむことができる。  山縣は妻である友子との間に、3男4女と7人の子をもうけたが、次女以外夭折してしまったため、姉の子の伊三郎を養子としていた。  大正11年に山縣亡き後は、伊三郎が山縣農場の後を継ぐ。  多くの華族農場が小作人に耕作を任せる形で経営する中、山縣は希望する小作人に土地を分譲して自作農とする形を取った。  それは山県の死後も遺志として受け継がれ、太平洋戦争後の農地改革の頃には、農地のほうはほとんど自作農になっていて、山縣農場は山林経営だけが主になっていた。  伊三郎には有道という息子がおり、有道は大正元年に東京外国語学校ドイツ語本科を卒業して、ドイツ帝国に留学。  チュービンゲン大学で造林学を専攻していたが、大正3年に日本とドイツが国交を断絶したことにより日本に帰国する。  造林学を学んでいた有道は、山縣が始めた山縣農場を主宰することとなった。  有道の子、有信は海軍からの復員後、矢板市長となり、三期市長を務める。  矢板の地は長く山縣家と共にあったのである。  2018年には山縣有朋記念館の敷地にある農場事務所の金庫で、借地契約書など新たな史料が見つかっている。  今後さらに山縣有朋と矢板の話が広がっていくことを望んで筆を置く。
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