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 壁に囲まれた無機質な室内に、幾台もの機器が所狭しと並んでいる。  ガスボンベがずらりと備え付けられ、数多の配管が為されている様子を見れば、ここが理工学系の実験室であると一般人でもすぐに気付くであろう。    ある一台の前に佇んで、円状に巻き付けられている茶色のワイヤを取り替えている白衣姿の男がいた。  胸部に『結城』とIDカードを下げたその男は、整った面立ちと靭やかな身体付きから年齢は三十代半ばと知れるが、沈静した雰囲気に着目すれば四十代と言われてもおかしくない。  癖のない髪を無造作に流し、必要最小限の服装を整えている風采は、虚飾に無関心な人間であることを窺わせる。  ラテックス手袋を嵌めた結城の手は針金の先を器用に切断してから、装置へと取り付ける。  一見何の変哲もない、ただの線材と受け取れるそれはGC-MS(ガスクロマトグラフ-質量分析)用のキャピラリーカラムであり、広げれば全長三十メートルに及ぶ。  こうした実験用の装置は千差万別であり、膨大な数が市販されているが、目的によって実験者が適切な種類を選ぶ。  結城が今回選んだのは、メタンフェタミン、アンフェタミンと云った覚せい剤系の薬物分析時に用いられる装置で、精密測定タイプのものだった。    ――違法薬物を分析するという、通常一般の実験室とは異なる性質をもつこの部屋は、厚生労働省近畿厚生局の麻薬取締部に属する鑑定室。押収品の同定だけでなく、より高感度、より正確な薬物分析を行うべく日夜の研鑽が続けられている研究室である。結城は、捜査担当の麻薬取締官たちが摘発した密売組織のアジトから大量に発見された品を鑑定する為に、分析に取り掛かっているのだった。  一連の準備が終わったところで装置を立ち上げ、試料用のガラス製シリンジをケースから選んでいる時に内線電話が鳴り、右手にそれを持ったまま結城は受話器を取った。 「はい、結城です」 『結城鑑定官にお電話が入っています、AG社の安井様と仰有る方からです』  普段から世話になっている営業マンの名前を告げる事務官に、結城は繋いでくれと気軽に告げた。  回線が切り替わる音の後に耳に届いたのは、物柔らかな安井のそれとは似ても似つかない、低い声音。電話の向こうに居るのが誰であるかを知った瞬間、結城の手からシリンジが滑り落ち、ガラスが砕けた。 『――雅人か。いつの間に鑑定官なぞになっていたんだ』 「……榊……!」  結城の精神に忘れようと思っても忘れられない過去を刻んだ男の声音は、最後に逢った八年前と変わらず、傲岸な響きを隠そうともしない。雅人と呼ばれた鑑定官は、いい加減にしろと押し殺した声で切り返した。 「お前と話すことなど何もない。第一、ここをどこだと思っている? 仕事中なんだ、もう切る」 『今夜八時、キタの“Progress”。お前が嫌だと言うなら、舎弟を寄越して無理矢理にでも連れて来させる』  それが嫌なら自発的に来いと暗に言い残した榊は、こちらから会話を断ち切る慈悲すら与えず、一方的に通話を閉じた。    震える手で受話器を戻した結城は足元に散乱したガラスの破片を見下ろしたが、拾って始末する気力もなく、己が再び網に取り囲まれつつあることに暗然と立ち竦んだ。  安井がここに出入りしていることまで調べ上げて名を偽った周到さからして、その網は決して想像の産物ではなく、現実感を伴って結城の心身を確実に縛り付けようとしていた。    ――榊孝一郎。  中学生の時に出会ってから二十余年の今に至るまで凄まじいまでの影響力で結城を捕らえ続け、虜囚としている男。  自身の忌まわしい血と彼から逃れる為に、結城は闇の奥で呻吟し、もがいて来た。  八年前に前職を退いて現在の地位に就き直してからようやく得た安寧を、榊は再び打ち砕こうとしている、容赦のないその権力で。  これほどに用心に用心を重ね、身を隠すように生きて来たというのに、一体あの男はどうやって己の居場所を知ったのか。 「くそっ……!」  呻き声を漏らした結城は、目を閉じた。  絶望してそれで済むものならば、疾うにしている。  榊が結城に与え続けているのは絶望というような生易しいものではなく、生の根源を鷲掴みにされて引き千切られるにも等しいほどの痕跡と、打撃だった。  あの男を前にしては傾ける憎悪はいとも容易く翻され、圧倒的な力で押さえ付けられて脆くも踏み躙られる、足元に砕け散ったこのガラス同様。あの男に出会わなければ己の人生はどういう道を辿っていただろうかと、そう推測する端緒すらも奪う存在は、永劫に解けない詛いにも等しい。逃れたと考えても所詮は一刻の休息に過ぎず、再び嵐の中へと引き摺り込まれざるを得ないことを、八年前と同様に思い知らされるしかなかった。    逡巡の余地などない。己は“Progress”という店まで赴かねばならない。あの男が提示する条件は常に、退路と呼べる選択肢が絶無だからだ。  過去に囚われたままの己が前進を意味する名のクラブに呼ばれるとは、随分と皮肉な場を用意されたものだ。  結城は息を吐いてプリンタに備えてある紙を一枚引き抜くと、膝を屈めてシリンジの残骸を集め始めた。 ※ ※ ※  タクシーの運転手に“Progress”の名を告げれば、車はすんなりと発進した。  かなりの有名どころらしいが、榊が指名したことからしても、半端な場所でないのは確かな話だ。  以前は関東と関西の主だった街は知り尽くしていたものだが、職務から遠ざかり、世捨て人同然の生活を送っている今はすでに勘も衰えている。  一年に一度、付き合いで足を運ぶか運ばないかという北新地のネオンを車窓から久しぶりに眺め渡した結城は、いつの時代も夜の世界の顔は本質的には変わらないものだ、と思った。  ひとときの歓楽を求める男が居て、女が居て、闇の助けを得た世界も夜が明ければ全ては絵空事と転ずる、儚い情景。その狭間を徘徊し、拳銃を懐に呑んで同僚と共に潜入捜査をした頃の、何かに憑かれたような冷静な熱意も、もはや遠い昔の出来事としか考えられない。    車がぴたりと付けられたその店を、結城は車内から見上げた。派手な装飾は何一つ無く、暗褐色のタイルに覆われた壁の只中に穿たれた扉を、所在無げに照明が照らしている。目立たない造りの店だったが、そうした構えの店の方が往々にして高級の類に属し、裏社会との縁故も深い。金を払って降りた結城は、店から現れた黒服の男に名を告げた。 「結城だ。八時にここに来るよう言われたのだが」  男は頭を下げ、丁重にドアを開けた。 「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」  足を踏み入れれば、華やかなホステスに混じってダークスーツ姿の男が目立つ。  店の広さは厨房も含めて三十坪ほどだが、簡素さで統一されたデザインの為に感覚的にはもっと広く見える。榊の配下と思しい男たちの人数をちらとチェックしてから、結城はボックス席を慎重に探した。壁際で観葉植物に囲まれたソファの向こうから、大柄な男がグラスを持ち上げた。  案内役を無視した結城はそれを目印に真っ直ぐ歩み寄り、何の真似だと冷ややかに問うた。 「もう二度と逢わないし、逢いたくない。そう言ったはずだ、榊」 「それはお前の一存であって俺の意思じゃなかった、こちらが了解した覚えもない。だからこうして探し出した。それだけだ」  男は事もなげに斬り捨てると口角の端を吊り上げ、ホステスや配下に席を外させたので、結城はL字にしつらえられたソファの一端に腰を下ろした。  趣味の良い藍のダークスーツを着こなした精悍な体躯や、前髪を掻き上げている額から顎に続く力強いライン、足を組んだ姿勢の洗練を目にすれば、大抵の者はこの男のことを実業家とでもみなすであろう。  精神の強靭さを示す眉、高い鼻梁、引き締まった口元は端整の一言に尽きる魅力的な造作を誇っているが、眸の鋭利な昏さがそれらの印象を覆してしまう。  中学生であった頃から、その眸の印象は少しも変わってはいない。  榊の瞳に見詰められるたび、結城は心臓に白刃を突き立てられるような思いをしたものだ。  そして二十三年を経る間に彼が生きる世界によって刃は砥がれ、一層剣呑な光を宿すようになっていた。 「お前はブランデーは好かなかったな――長谷川、ドライマティーニだ」 「はっ」 「酒は要らない。何故俺をここに呼んだか、それを聞いたら帰る」  命令を遮られた案内役の男が戸惑ったように動きを止めたが、榊が目配せを与えると、遂行の為にカウンターへと去った。己の希望など無視されることが判り切っていた結城は反論は唱えなかった。ブランデーを唇に含む榊を能面のように見遣って答えを促すと、相手はグラスを離して言い放った。 「何故呼んだかだと? さっきも言っただろう。八年前、俺の前から勝手に消えたのはお前だ」 「ああした関係を俺から頼んだ覚えも、受け入れた覚えもない。お前から消えるのに許可が必要な訳がない」 「相変わらずだな、雅人。俺から逃げ回るのに必死じゃないか。麻取の現場を離れて鑑定官なんぞに転向したのも、その為か」  心の奥に隠していた真相をずばりと突かれ、結城は一瞬息を呑んだ。  覚悟はしていても、この男の無慈悲な語調で断定されると、作っていた警護の壁にひびが生まれる。眉を僅かに顰めることで、辛うじて動揺を防いだ。  結城は、国立大学の薬学部を卒業後は厚生省の麻薬取締官として第一線で捜査に当たったが、新宿歌舞伎町の捜査に赴いた八年前、自らの手で断ち切ったはずの糸に再び手繰られることとなった。  関東系列の広域指定暴力団、龍世会の幹部に就いていた榊との再会である。  榊とは十三歳の時に中学の同級生として出会い、身体を無理に奪われたのは高校入学直前の十五歳。  信じて疑わなかった己の出自に隠されていた醜悪な真実に打ちのめされ、生さえ放棄しようとしていたところに、更に科された枷だった。  結城が進んで受け容れたことは一度もない。  いつも榊から求められ、貪り尽くされるだけだった。  だが性に敏感な若い躯に刻まれた欲情はどれほどに歪んだそれであろうとも衝動を掻き立て、胸は本能的な拒絶感と榊の冷たい眼差しに裂かれながらも身の裡に巣食う熱が快楽を助長し、狂ったような情交に自らを明け渡し、そして心を更に引き裂く日々が続いた。    大学進学後は榊からの連絡が途絶え、落ち着いた生活を送ることが出来たが、彼と距離を取りたいと願いながらも身体に裏切られる日々を送った高校時代からすでに結城は悟っていた。  榊との接触を完全に断ち、肌からその薫りを消し、脳裏から忘れ去らせる為には、平凡な刻を惰性で送り続けるだけでは不可能であることを。麻薬取締官として生きようと決意したのは、正義感に駆られたからではない。自身の存在を人生ごと全否定し、考えることも安らぐことも拒絶した果てに、通常の世界からの隔絶を目的として選んだ道だったのである。己を全て賭することが必要な程の壮絶な環境へと精神を追い込む必要があった。    必死だった。  生きることも、死ぬことも忘れていた。求めていたのは忘却のみであった。    榊孝一郎という存在によって自由意志を否定され、束縛され続けた刻の記憶はしかし埋め切れない傷として残り、事あるごとに結城を苦しめたが、それでも職務に全力を注いでいる間は過去を思い出さずにすんだ。  やり甲斐もそれなりに覚え、経験も積んで関東信越地区から東北地区へと転属することが決まった矢先に、新宿の安ホテルにおける覚せい剤取り引きの垂れ込みが匿名で入った。    二十八歳を迎えたばかりの、暑い夏の日。  それが己の命運を再び変える日となることを、当時の結城は知る由もなかった。
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