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垂れ込みの一週間前、故意に税関を通過させるコントロールデリバリーによって見逃された覚せい剤であろうというのが、情報官がそれまでの情報を解析して弾き出した結論だった。
ガセの可能性は低いと見極めた捜査第二課課長の今西から会議の席上で断が下され、捜査令状も出された後に結城を含めた八名が出動した。
ごく普通の社会人に扮して現場に駆け付けた麻取たちはホテル内での監視および路上駐車での待機を行い、結城は通りすがりの通行人に紛れて同僚と一緒に建家を見張った。
下っ端の売人と一般人どころか暴力団菅原組の幹部が直接噛んでいる上、現場にも現れると確かな情報が入っていたために、誰の顔も緊張していた。
回想するだけで、結城の肌膚にはあの夜の蒸し暑さが迫る。
いつ突入しても良いように飲料も控えていた男たちの額にも、リボルバーを隠した結城のシャツにも、汗が滲んでいた。
同僚の楠木が暑いなと独りごちては、愛妻にアイロン掛けして貰ったハンカチでしきりに首筋を拭っていたのも、ついこの間のようだ。ホテル内や車内で待ち伏せている仲間たちも、クーラーを必要最小限に抑えているはずだった。冷房は筋肉を冷やし、咄嗟の動きに対応出来ないからである。あるいは黙然と煙草を消費し、あるいは掌で風を作っては何食わぬ顔で周囲に溶け込んでいる男たちの中で、結城もまた物慣れた態度で集中力を保ち続けた。
それらしきターゲット四人がホテル内に入ったのを見届け、携帯電話とライトを駆使した連絡で仲間と情況を把握し合うこと一時間、ホテル内に潜んでいた監視役から『取引開始』の合図が入った。
すぐさま連絡が行き渡り、逃走者を追う二名を路上配備に残し、結城たち四名が三階に急行した。
隣室から出て来た監視役の二人が廊下の見張りに立ち、四名が部屋の前に音もなく集まると、頷き合ってドアを破った。相手から発砲されるであろうことを考慮して身を屈めながら、結城ともう一人が突破組として怒号の轟く中を部屋に突入した。情報通り菅原組の幹部がその場に居り、テーブルの上に広げられたアタッシュケースと札束の数を見れば取引の証拠は疑いを入れないものであった。
「関東厚生局の麻薬取締部だ、覚せい剤所持の疑いにより全員連行する、動くな!」
「畜生、ふざけるんじゃねえっ!!」
掴み掛かって来た男の腕を逆手に捻って床に組み伏せた結城を楠木がすかさずバックアップして、廊下の見張り役たちも背後を衝かれる恐れがないことを確認して室内に踏み入った。
逃げようにも一人が結城によって押さえられ、ドアも完全に塞がれた以上、すでに幹部本人も他のメンバーも無駄な抵抗を放棄したようだった。
だが取引人員は総勢四名であるはずが、見渡すともう一名居ることに麻取側は気付いた。
面食らいつつもターゲットたちを縛り上げるべく起き上がった結城の視野に、乱闘にも加わらず窓際に立っていた男の唇を掠めた皮肉な笑いが映った。
忘れたくとも忘れられない、冷徹な嘲笑。
既視感の在るその笑みを浮かべた男を、結城は愕然と真正面から見据えた。
まさか、そう思った。こんな残酷な偶然があって堪るものかと拒んだ。
夢であれば、どれだけ良かっただろうか。幻であれば、どれだけ救われただろうか。
しかし眼前で繰り広げられる捕物にも悠然と佇み、結城を見詰めていたその相貌は、嘘であって欲しいと叫んだ魂を裏切って否応のない事実を突き付けた。
ダークスーツを纏った榊は四名を助ける素振りすら見せず、己を捕らえんとする麻取たちの数十センチ横の空間に自動拳銃を発砲して勢いを削いだ後、ちらりと結城に視線を送ってから窓ガラスを銃把の一撃で粉々に叩き割り、すぐ近くに在った非常階段を下りて逃れた。
呆然としていた結城の瞳には、榊の冷たい微笑も、窓から夜闇に飛び出した鮮やかな身のこなしも、一枚一枚の写真が捲られるスローモーションのごとく焼き付いて離れなかった。その光景が、気温と共に結城の理性を蝕んで行くかと思われた。榊の逃走方向を階下の仲間に告げた楠木が肩に手を置くまで、知覚が蘇らなかったほどに。
「大丈夫か。威嚇発砲や言うても、スレスレやったさかいな。ふとい奴や」
楠木が忌々しそうに呟いたが、結城はそうですねと応えるのが精一杯だった。
皆で四名を表の車まで護送したものの、榊は逃走追跡の二名からも逃れおおせ、行方は杳として知れないままに終わった。
取り逃がした一名の人相を聞いた今西は眉間を寄せた。
「恐らく龍世会の榊孝一郎だろう、私が近畿の事務所に居た頃、ミナミで一度だけ見たことがある。龍世会は薬には関わらない方針と聞いているが、幹部の榊が居合わせるとはどういうことだ」
そもそも四名であったはずの取引の場に、何故榊が居合わせたのか。
取引メンバーがホテル入りするところを張り込みの段階で把握していたのに、どこから現れたのか。
考えられるとすれば、榊だけは麻取がマークする以前からすでにホテルのどこかに部屋を取り、出入りを見られないようにしていたことになる。
押収したのは高純度の覚せい剤十キログラムであり、四名の自供もスムーズに行っていたが、選りすぐりの麻取たちの顔色は晴れなかった。捜査慣れしている皆が至った結論は、ひとつだったからである。
榊本人か、彼の息の掛かった人間が垂れ込みを為したのだ、と。
麻取の捜査の手が伸びることを見越していなければ、事前待機が出来る訳がない。
脱出に有利な非常階段が近い部屋を選んだのも、あるいは彼がメンバーに指定したのかも知れなかった。
「龍世会と菅原組の上部組織は系列が違います。あまり仲が良くないはずですが」
「そこだ。何故、榊が菅原組と一緒に居ることが出来たのか。憶測の域を出ないが、菅原組を罠に嵌めたとも考えられる」
「罠、ですか」
怪訝そうに問い返す部下に、今西は頷いた。
「仲が悪くとも、いくらでも虚言を弄することは可能だ。どういう目的があったかは知らないが、榊が菅原組を丸め込んで接触した上で我々に垂れ込んだと考えるのが自然だろうな」
「嵌めて嵌められるのがこの世界とは言え、ぞっとしませんね」
仲間たちを他所に黙りこくっている結城の瞼の裏には、榊の冷笑が残像のように纏わり付いていた。
どうして彼が龍世会に入っているのかという疑問は無論のこと、あの邂逅が果たして人為的なものか、それとも偶発によるものかと見極めることで思考が占められていた。
あれが榊の計画に則った上での再会とは考えたくなかったが、偶然にしても、神があそこまでの確率を差配するだろうかとの訝しさが頭をもたげたのである。己が麻取として、榊が極道として、検挙の場で鉢合わせるなどと、そんな出来過ぎた偶然が果たしてあるだろうかと。
だが麻取の名簿は世間には一切公表されておらず、百七十名強に上る人員の詳細を暴力団側に入手されるとはまず考えられない。面が割れるのを防ぐため取締官は全国の取締部を点々として定住しないようにしている、それほどに身元隠蔽に細心を重ねている以上、いくら榊の頭脳と幸運が勝ろうとも、あの場を故意に創り上げることは不可能であろう。となれば、やはり神の思惑と結論付けるしかなかった。
「どうした、結城。さっきから顔色が悪いな」
「このくそ暑い中で立ち続けやと、なんぼ若い云うてもさすがに参りますやろ、課長」
楠木が明るい関西弁ですかさず入れたフォローに皆は笑ったが、結城は場の雰囲気に追随することも出来ず、首を振って大丈夫だと示しただけだった。
高校卒業から十年、榊の呪縛から解放されたと信じかけていた今になって突然に立ち現れた無情な再会に、動揺するなという方が無理だったろう。
自分が関東に居ることを知られてしまった以上、榊からは逃げられないという明確な予測が、精神に伸し掛かっていた。
そして捕物の手柄を労わった課長から解散が告げられ、めいめいが帰途に就いたその途上で――結城の予測は、現実へと摩り替わったのだった。
「――八年前にお前が消えた時、俺は麻取そのものを辞めるのかと思っていた。まさか鑑定官になっていようとは考えもしなかった」
「………」
揶揄するような口調でうすく笑う榊に、結城は無言で応える。出されたカクテルにも手を付けず、彫像のように身動きしないまま。向こうも答えを期待してもいなかったのだろう、グラスを傾けながら、お前を探すのは苦労したと他人事のように続ける。
「地元は勿論、薬事系の会社もその筋の企業舎弟に探させた。だがどこにもお前は居なかった」
「それをどうやって、俺の居場所を知った」
「蛇の道は蛇という奴だ。理化学備品専門の商社を経営している企業舎弟の一人が、営業の納入先をチェックしていた時、新規の顧客名簿にお前の名前を見付けた。その三分後に、俺に連絡が来たのさ」
学術業界は世間が狭い。
名の通った同分野の専門家は大抵の横繋がりが出来る上、学会で顔を合わせることもしばしばだ。
どこから己の所属が漏れるか判らないために、結城は学会にも出席しないようにし、鑑定官として再出発する際に母校の法医学講座に通い直した他は大学にも近寄らなかった。
よもや自分が取引した会社にまで榊の息が掛かっていたとは。
たしかに装置や備品の有名メーカーは誰しもが頻繁に選ぶもので、そうした会社の営業であれば手広い得意先を有しているはずだった。自分が関わったことのある企業をあれかこれかと記憶の底で探しても、暴力団と繋がっていそうにもない大手ばかりである。まさかAG社がそうではないかと思い当たった結城の顔付きを見て取ったか、榊は生憎だなと言った。
「AG社には何の罪もない、安井という男も名前を借りただけだ。優秀な営業マンらしいじゃないか、誤解してやるな」
容疑を掛けられてもおかしくない嘘を仕向けたのは榊であるのに、当の本人のぬけぬけとした擁護に結城は頭に来ると同時に、大企業すらも背後で操っている暴力団組織の根深さに嘆息した。
だが、もう結構だと言い捨てて立ち上がりかけた手首を掴まれ、鋼鉄のように己を縛る力にはっと凍り付いた。自覚よりも感覚が覚えているその力は、逃げ道をすでに断たれていることを教えるものだ。
いや、ここに来た刻から判っていた、自分が網の奥へと進んでいることを。
無事に帰ることなど出来ないことも、事の始めから承知していた――
「河岸を変えよう。来い」
どこに赴こうとしているのか、わざわざ頭を働かせるまでもない。黒く大きな何かに心が呑まれて行く感覚を覚えながら、結城は己を捕らえて離さない榊の後を付いて行った。
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