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3
一流シティホテルのスイートルームに入るなり、唇を塞がれた。
眉を顰めて避けても、狡猾な舌は結城の隙を突いて滑り込み、心の隙間ごと絡め取るかの如く蹂躙する。
数え切れないほど交わして来た接吻の味は、甘さを含みながらも常に苦い。
身体中が融けるような官能を齎す一方で、精神ごと茨の鎖で縛り付けて侵蝕してゆく毒を注がれる、濃密な蜜の中に猛毒が潜んでいるように。
「あ……」
背中から腰へと滑り下りた掌の動きに、結城は抑え切れず声を漏らした。
精神が拒絶を訴えても、この男の体温を感じれば己の抵抗力は失われる。
榊は結城に取って麻薬のような存在だった。断ち切ろうと思いながらも重なった茨は断ち切れず、爛れた悦楽で内部から滅ぼすであろう禁断の薬。
「変わらないな、お前は」
そうさせたのは自分であると百も承知で醒めた言葉を浴びせる男の声すらも、疼くような熱を掻き立てるだけだ。舌先を舐め合いながら互いの身体を愛撫し、止め処なく溺れてゆく。
八年前も、同じだった。
取締部から帰宅する途中で龍世会の男たちに車に押し込められ、榊のマンションまで有無を言わせず連れて行かれた。
捜査官として体術を会得している者の強みで執拗に抵抗する結城の両手首を、榊は体格差を利してネクタイで縛り上げ、その後で唇を封じたのだ。
結城が榊の接吻に弱いことを熟知した上で仕掛けられた、最初の陥穽。
そして自由にならない躯を隅から隅までもどかしく探られ、夜が明けるまで嬲られ尽くしたあの快楽を何と呼べば良いのか。
戒めを外してくれと哀願しても撥ね付けられ、気も違うような焦燥に自尊心を捨てて訴えても、榊は結城を苛むのを止めようとはしなかった。
再会から一週間、毎夜をそうやって狂った情事に費やし、時の感覚もあやふやになる程に榊と烈しく縺れ合った。会話などなかった、何故麻取で居るのかと、何故渡世人になったのかと、それすらも訊ね合うことすらなく、逢えば肌を重ねることだけを貪った、蘇った官能のままに。
十五の歳から三年の歳月を馴染んだ躯同士が以前の狎れを取り戻すに時間は掛からず、深みへと堕ちる一方であった。
このままでは危ないと、結城に残された一抹の理性は悟っていた。
かりそめにも司直の側に立つ己が犯罪者と情を交わすなどと人倫にもとる上、絆を断つことでしか保てなかった榊の影響の無力化は、一度触れればそれまでの努力全てを灰燼に帰せしめるものだった。十年の空白など彼の前では歯止めにも何にもなりはしない。
一週間目の最後の夜、結城は榊に別れを告げた。
もう二度と逢わない、電話でそう言い残して。
あの時から八年、互いに三十代を迎えている。
客観的に眺めても、榊は当時よりも一層沈静した雰囲気を湛え、男盛りの魅力に溢れていた。
自分に自信がある者特有の傲慢さすらもどこかセクシュアルな薫りへと転じさせているのは、裏社会を支配して来た経験ゆえか。
榊は結城を軽々と抱き上げて奥のベッドルームへと誘い、押し倒した。
結城もトレーニングを積み、身長差も殆どないのに、榊の力はそれらを簡単に上回る。
スーツもワイシャツもしどけなく散らした白い肌に朱が落とされ、胸元を執拗に責められて背を反らした結城の喉元に榊の歯が立てられた。
「んっ……」
「こんな身体で八年もどうしていたんだ、雅人。女じゃ到底満足出来まい」
「………!」
結城が気力を振り絞って鋭く睨み据えると、眦を細めた瞳が陰鬱な光を湛えていた。
身体から結城を支配しようと、十五歳にして榊が目論んでいたとしたら――この男の冷酷さと聡明さであれば充分可能性のある話だったが――それは正鵠を得ていたといえる。
女性も知らないうちに同性に抱かれる悦楽を底の底まで刻み込まれた結城は、心は女性に惹かれることがあっても身体が付いて来ないようになった。榊という絶対的な力と存在感を持つ男を知ってしまっては、どんな人間も色褪せて見えた。
幾度か女性を抱きもしたが、榊との激越なそれに比べれば充足には至らず、自然と足が遠のいた。
現在まで恋愛らしい恋愛もなく独り身なのは、つまるところはその影響によるものだ。
不本意であろうともたった一人の同性に抱かれることでしか満たされない上、身の内に流れる血に穢れを有する自分が、伴侶と選んだ女性を倖せに出来る訳がなかった。
「俺もお前以外じゃ満足出来なくてな。お前の身体はどんな奴よりも最高だ、雅人」
ローションを塗った指が、体内へ滑り込む。
結城本人ですら触れることのない、身体の奥。
忘れようと努力し、実際に忘れていたはずの欲望が自制を砕く。
深く刳っては浅く逸らす指先の愛撫に、息が途切れた。
全てを知り尽くしている巧みな戯弄によって被虐的な歓びを感じるように仕向けたのも、この男。享楽が過ぎれば過ぎるほど後に残るのは虚しい索漠と判っていても、腕は榊へと縋ってしまう。仰向けのまま膝を開かされ、男の熱が躊躇いもなく背筋を貫いた。
想像したくもない己の姿態への羞恥に結城は瞼を固く閉じた。この男の瞳を見たくなかった。
自身も快楽の只中に居ながら、乱れる結城を侮蔑にも似た眼差しで見下ろしてくるあの瞳は。
だのに榊の唇が防御を手離させようとする。
眦を辿る指先が、こちらを見ろと促す。
両の手で顔を覆いながら、凄惨な光景を指の隙間から見たがるのと同様の心理とでも云うべきか。それとも、榊に屈したいという潜在的な願望がそうさせたのか。
結城は、瞳を開いてしまった。
あの嗤いが、整った口元の端に浮かんでいた。
麻取として、極道として出逢ってしまった現場で、捜査官たちを睥睨して佇んでいた時と同じ、峻烈極まりない微笑。
これ程に無慈悲な男を結城は知らない。自分は呪われている、そう思った。
それなのに生き別れになった半身を求め合うかのように、榊の躯は結城の体内へ融け込んでゆく。
汗に濡れた肌が触れる部分から、二人が一体になっている箇所から、他の人間とでは絶対に得られない、空恐ろしい情動が生まれる。
意志が官能に敗れる惨めさは自身への反発と執念深く転ずるもので、結城は十代の頃からその憎しみを抱き続けて来たが、しかし死ねなかった。
この世を去ることで逃げるよりも生きて抗った方が、より榊との距離が取れると感じたからだ――麻薬取締官という道に進んだように。
生死の境界は遠いようで近いからだろうか。
あるいは、死ねばあらゆる感覚は消失するがゆえに、結城の本能はその選択を避けたのかも知れなかった、榊と別れたという実感を掴みたいがため。
少なくとも榊の生命力に拘束されて、死への途を封じられているのは確かな話だった。
結城の反応を確かめるように、榊が動く。
通常の男性には有り得ない、身体の奥を犯される感触に違和を覚えなくなったのはいつからか。
それを待ち焦がれるようになったのは、幾度奪われてからだっただろうか。
榊の動作から齎される痛みは、八年という別離の長さによるものだけで、本質的なものではない。最奥を数度煽られると早や、息が乱れ始めた。
「……は、……んん……っ」
背中の下に残ったままのワイシャツが纏わる。
鈍く軋むベッドの音が、胸の上で榊のそれと交じり合ってシーツに落ちる汗が、どうしようもないまでに劣情を広げる。
燃えるような熱さに包まれたこのまま狂って正気に戻らなければ、楽になれるのに。
そう念じても、耳朶を食む男の唇が阻む。項を辿っては痕を残し、自分だけを見ていろと強要する。
嫌だと首を振っても躯は相手に強く絡み付き、果てを望み、何もかもを棄ててあの刹那へと走る。この男の肌の薫りを、荒い息遣いを、彫像のように見事な筋肉に覆われた身体を、もっと引き付けたかった。引き付けて、そして与えて欲しかった。
わざと緩慢に侵略するだけだった榊の動きが、性急なものへと変わる。
すでに頂点に近かった精神は忽ちに爆ぜ、余りの激越さに一瞬意識すら途切れた。
己の中で榊が達したのを知ると同時に、結城の四肢から力が抜け、腕がシーツの上に滑り落ちた。
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