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 翌日の朝、結城は昨日と同じGC-MSの前に座っていた。本来であれば別の装置を使いたかったのだが、後輩の関屋が急ぎの鑑定があるとのことで、快く譲ったのである。  複数装置を抱えたラボではこうしたマシンタイムの調整はよくあることだ。  装置が使用可能な状態になるまで若干時間が掛かる。  端末PC用の椅子に腰を下ろした結城は次の作業を選ぶでもなく、漠然と物思いに耽った。  昨夜、榊が『頭』と部下たちに呼ばれていたのを結城はシャワールームで耳にしたが、八年前には幹部であったあの男は、現在では“関東の雄”と呼ばれる龍世会のナンバー2の地位を手に入れているらしかった。 『また逃げようとでも目論んでいるのか? そうは行かない。せっかくお前の居所を掴んだんだ、八年前と同じようになるとは思わないことだ』  使い物にならなくなったワイシャツの代用品を配下に用意させた榊は、やむなくそれを受け取って服装を整えて行く結城にそう言った。別れようとしても、お前の身体が俺から離れられるのか、とも。    情痴を飲み乾したグラスの底には絶望が綯い混ぜになった澱が淀み、屈辱を四肢に遺し、矜持を完膚無きまでに裂く。  高校生の時から彼との情事はそうだった。  結城と榊が会ったのは、とある地方都市である。  人口百万に近い規模を誇る街で結城は生まれ、会社を経営する富裕な両親の慈愛の許で育った。  名門と名高い国立附属幼稚園から結城は入学し、あとは内部を進学して行ったが、榊がその機構に入って来たのは、中学の時からだ。  国立附属に入学する者は誰しも一度は抽選の道を通らねばならず、競争率も半端ではない。筆記試験と抽選という、頭脳と強運が試される二つの選考試験を突破した榊は、結城と同じクラスに所属した。    彼に対する第一印象を問われれば、異質という単語を結城は口にしたに違いない。  それほどに榊は周囲のどんな学生とも毛色が違った存在だった。  生まれ育ちを指しているのではない。彼は父を早くに亡くしていたが、母親の江里子は全国でも有名な華道の流派家元を務めており、そういう意味では彼はむしろ良家の子弟の部類に入っていた。  結城の両親とも知己であるという彼女には、学校で顔を会わせる度に優しい微笑で挨拶されたものだ。  しかし授業参観にも運転手付きの高級車で現れ、淑やかな和服姿で担任教師に挨拶していた母親に比して、一人息子の老成した気配はあまりにもそぐわなかった。  江里子の艶麗な美貌をその男性的な容姿に色濃く継いでいただけに、二人を眺めた結城の困惑は倍だったのである。  榊が四月生まれで、結城は六月生まれという二ヶ月だけの差が、二年にも思えた。  獰猛な獣が静かに密林を徘徊しているような抑えた野生は、彼に語り掛けることも、噂の対象にすることすらも恐れさせ、同級生たちは畏怖にも似た眼差しで彼を遠巻きに見守った。    公私共に不満など噴出しようもない、何一つ不自由の無い環境でそうやって時を送り、有名大学の法学部に進学したはずの男がなぜ極道などになったのか。なぜこうまで自分に執着するのか。  結城は、これらをまともに尋ねたことはない。  己の人生そのものに戸惑い、榊に巻き込まれるだけで精一杯だった十代の時はともかく、成人となっていた八年前の再会時には、訊こうと思えば訊けたはずだった。  だが、それでもまだ結城は若かった。  抗いながらも、榊の情欲の網に脆くも溺れた――あるいはあの男も溺れていたのかも知れないが――がゆえに、彼を避けることだけに囚われていたために、問いを投げる機会もなかった。  けれど、今回は違う。  あれから更に十年近く経過し、自虐的なまでの内省力を持つ人間がしばしばそうなるように、諦めにも似た客観性も身に付けている。  年輪を重ねた人間が生涯の終局に立って自伝を認める時の如く、自分たちの関係を、それなりの視点で俯瞰する力が備わっていた。  逆に言えば、二十年も経たなければそういう姿勢を持てなかったほど、榊の力に敗れ続けていたとも言えよう。榊を斃すという道を考え付くには無力すぎて、自身の去就を左右するしかなかった位に。    普通ならば、二十数年も関わっておきながら訊ねない方がおかしいと思うだろう。  まして同性と異常な関係を結び続けているのだ。  しかしそれは榊という人間を知らない者が出せる疑問と言わざるを得ない。  あの男は、思惟を行動で示す性質の人間だ。言葉よりも実行が全てであるとみなし、実際にその通りに生きている、少年の時から。  もし説明を求めたとしても、自分の言行から察せと嗤い飛ばされるのがせいぜいであり、実際彼の前に立てば、理由を向ける意欲すら削ぎ落とされる。  そういう男の行為が、無意味の様相を呈することは絶対にない、些細なものでさえ。  目配せのひとつ、身振りのひとつすらもその底に大きな意図を持っていることを、結城は彼という人間の存在を知った中学生の時からすでに見抜いていた。  少年同士のにぎやかな交流が主だった同級生の集団において、そんな榊が極めて特異な存在になり、一目置かれていたのは何ら不自然ではない話であった。言葉数が少ないというよりも寡黙と表現した方が近く、それは単に他者と語り合うことを忌避しているというよりも、口を開くことすらも無駄でしかないという、極限まで高められた合理性によるものであるのが読み取れた。  常に何かを胸に秘めているような整った横顔に、若い聡明さというよりも、渇きを帯びた四十代の皮肉を認めたのは結城ひとりではなかったろう。    高校への進学試験が無事に終了し、両名とも合格が伝えられた後に榊に身体を奪われたが――その直前に起こった、己の人生を真っ向から覆す出来事を思い出した結城は、眉を弓のように険しく引き絞った――事前にそうした兆候が現れていた訳ではなく、言葉で何かの理由を与えられた訳でもなく、すべては突然だった。  だがその後の三年間から今に至るまで、こうまで己を捕らえようとするからには、榊だけが有している本人なりの理由があるはずであった。  その理由が恋愛感情に基づくという甘い予測を抱くほど結城は夢想家ではない。  鑑定に留まらず、科学という分野は常に事実に支配される。  考察は仮定でしかなく、結果が最優先なのだ。  大学時代の研究で、さらに鑑定官としてのトレーニングで身に付けたその思考方法を榊との関係に適用すれば、彼が結城に求めているのは身体だけという結論に至る。  では榊は同性愛者であるのか?  他者への性的な興味を覚え始めるのは思春期前後と一般に言われているが、もし彼がそういう嗜癖を有しているとすれば、同性への欲望を有し始めたのがあの頃であると考えても、矛盾はしない。  だが、対象として何ゆえに自分が選ばれたのだろう。  榊は他の人間相手と異なり結城とは口数を重ねていた方だったが、特別に親しいと呼べるレベルではなかったし、彼の目に留まるような、目立つ人間だった覚えもない。異性であればともかく、同性にまで性的な好奇を抱かれるほどの吸引力や容姿を持っているとも思えない……    榊の行動は雄弁ではあるが、敷衍にも限度というものがある。  あれこれと思い煩うのを止めようとした時、関屋がいつの間にか自分の傍に近寄っていたことに気付いた。心配そうにこちらを見詰め、体調でも悪いのかと首を傾げている。 「測定が終わったんで、呼びに来たんですが――珍しいですね、結城さんがぼうっとしているのって」 「そうかな? これでも結構ぼんやりする方なんだよ、私は」  結城は曖昧に笑って見せたが、らしくない失策に内面では舌打ちしていた。  実験に携わる者はなべて段取りに細かくなる。他の作業を平行して進める要領の良さがなければやって行けない。優秀な研究者であればあるほど、無駄は削ぎ落とされる。いつもの結城であれば装置を立ち上げる間に別の仕事に掛かっていたはずであり、座り込むという無為はしなかっただろう。    場を取り繕うためにこめかみを押さえながら立ち上がると、関屋はそれから、と続けた。 「さっき、捜査一課長の所に広島の今西部長が来ておられましたよ。後で結城さんに顔を見せるからと仰有ってましたが。土産にもみじ饅頭の豪華限定セットをもらいました」 「今西さんが?」  捜査官時代の直属の上司であり、現在は広島市の中国四国厚生局に麻薬取締部部長として勤務している今西の名を聞いて、結城は懐かしさよりも苦笑が込み上げた。時が巡るときはとことんまで遭遇という流れになるらしい。  事務用の居室に箱を置いてあります、好きな種類の饅頭を取って下さいと促す関屋に、そうするよと答えてから、結城はともすれば蘇りそうになる昨晩の榊の肌の薫りを、頭を振って追い払った。
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