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 会議室に呼ばれた時、窓際で外を眺めていた今西が、ドアが開く音に振り返った。  豊かな頭髪に白い物が混じり始めたその姿に、結城は歳月の長さを思った。彼はすでに五十代近いはずであった。  東大薬学部を卒業後に厚生省に入り、薬物規制関連の業務に当たった後に麻薬取締部に配属、以後全国を転々とした今西は、辣腕を遺憾なく揮った叩き上げの捜査官でもあった。  温厚な人柄が中肉中背のスーツ姿と物腰に滲んでいるが、その目は社会の底辺をさすらう者たちを相手に闘って来た人間の我慢強さと鋭利を煌かせている。  四国地区担当の高松市から関東信越地区に異動した若い結城を可愛がり、時には頭ごなしに怒声を浴びせながらも、捜査官として鍛えてくれたのはこの男だった。 「久しぶりだな、結城。元気そうで何よりだ」 「今西部長もお変わりないようで」 「なに、お前も気付いたろう。そろそろ白髪染めを女房に買いにやらせようかと考えているところだ」  手土産への礼を述べる結城の堅苦しさを遮り、磊落に笑った今西は、窓辺に近付いた白衣姿の元部下を感慨深げに見詰めた。  捜査官としての将来を信じていた優秀な青年を、鑑定官という陰の地位に退かせねばならなかった無念が視線から読み取れた。  八年前、榊に別れを告げた翌朝一番に、結城は捜査課を辞めさせて欲しいと上司に願い出た。  今西は目を掛けていた部下の突然の辞意に驚きを隠さず、何故だと理由を問うて来たものだ。 『お前にはお前の考えがあるのだろう、それは私も否定するつもりはない。だが、話せる限りでいい、事情を話すんだ。損失は、何の理由も無しには受け入れられるものではない』  噛んで含めるように口を開いた今西の言は、もっともであった。  結城も信頼している上司に隠すつもりはなかった。  一週間前に新宿で取り逃した龍世会幹部榊孝一郎は中学高校の同窓であり、友人でもあったこと。ホテルでの捜査時に、榊にはっきりと顔を見られていることを。  榊との交情以外の全てを率直に語った結城の過去と、万分の一であろう確率で起こってしまった邂逅を聞いて、今西もしばし言葉を失った。 『榊が、お前と知人だったとはな――奴はただのチンピラではなく、大学時代に身を持ち崩したと聞いてはいるが、まさか、こんな偶然があるとは』  だから新宿から帰って来た時に様子がおかしかったのかと、得心が行った風に今西は呟いた。  面が割れてしまった以上、捜査官を続けさせる訳には行かない。捜査上の支障は勿論、本人の身の危険すらもある。 どれほど惜しもうとも結城を捜査畑から外さねばならないことは、今西こそが一番良く判っていた。 『判った、受理しよう。それで、今後はどうするのだ。何なら、本省勤務はどうだ? 私から厚生省の友人に掛け合ってもいい』 『お言葉は有難いのですが、関東は避けたいのです、龍世会の膝元ですから。捜査官は辞めても、鑑定官としてやり直したいと思っています』 『鑑定官だと』  今西は思い掛けない結城の選択に再び絶句し、簡単な話ではないと憂いた。 『お前がいくら薬学部を出て薬剤師の資格を取っていても、それとこれとはまったく別だ。鑑定業務は一朝一夕に出来るものではないぞ』 『判っています。ですが以前から興味があったのです、これを機会に遣り直したいと思っています。どうか許可を願います』  一から勉強して見せると誓言した部下の真剣な願いに、最後は今西も折れた。  一般企業や省庁に入るよりも、同じ麻取内でひっそりと勤務を続けた方が龍世会も居所に気づきにくいであろうとの結城の考案を、今西も察したのである。   それから程なく人員の空きがあった近畿に転属、寝食も忘れて科学分析の基礎修練に取り組み、そして今の自分がある。  手は拳銃の扱いよりも機器の操作に慣れ、屋外での内偵で絶えず日に焼かれていた肌は屋内での研究生活で生まれ付きの白さを取り戻している。己にとって過去と現在を繋ぐ糸が幾つかあるとすれば、かつての上官であった今西の存在はそのひとつとも言えた。 「鑑定官になると聞いた時は正直無理だと思っていたが、頑張っているようだな。大学の法医学講座に通っていたときの猛勉強は伝説になっているらしい。教授に数年前お会いしたが、お前の熱心さに未だに感嘆しておられた」  微笑混じりの賞賛を、結城は軽く頭を下げることで有難く受けた。  だが顔を上げて真正面から今西を見遣った時、彼がここを訪れたのは自分の様子見だけでなく、別の本題があるのだと悟った。  はたせるかな彼は僅かに額を曇らせてから、重々しく口を切った。 「私がここに来たのは他でもないが、新聞でも取り沙汰されている通り、こちらの方でも広島市を中心にあちこちで活発にヤクが広がっていてな。合法違法を問わずだが、中でも酷いのは覚せい剤で、下は高校生から上は社会人まできりがない。家出人や借金に首が回らなくなった自殺者まで出たり、まさに悲惨な有様だ」 「………」 「そちらでも最近大きなヤマが続いているそうだが、うちで摘発した覚せい剤と、近畿で取り締まった覚せい剤はどうやら同一ルートの物があるようだ。お前が二週間前に出した鑑定書と、こちらの鑑定官が出した結果がほぼ一致した」  よくある話だった。  大量に密造された薬は、暴力団などが確立したルートを通って売買される。  近頃はインターネットという、気軽な匿名密売にはもってこいの手法もあることから、ネットに知悉している若年層が麻薬に手を出すのは必然の可能性であろう。  密造および密売源は内偵や捜査によって人脈を突き止めるのが普遍的だが、鑑定がその補佐を行うことも多い。同じ原材料から同じ合成ルートと触媒を使って物質が製造された場合、成分比や混入する不純物が同一となるからである。  もしA、B、Cという三人の人間がそれぞれ所持していた薬物を押収されたとして、AとCの品が一致し、Bは一致しないとなれば、AとCが購入した先は同一か、もしくは購入先が異なろうとも、売人たちが同じ密売元から入手していたということになり、捜査上の重要なヒントとなる。熟練した研究員たちが高感度な分析を行えば、その結果は極めて高い信頼性を持ち、誰も違言は唱えない。  自分が鑑定官として提出した鑑定書が今西の役に立ったのなら喜ばしいことだし、広域に渡る組織的犯行であることを憂慮して今後を近畿局側と話し合うべく関西を訪れたことも理解したが、今は前線から引退している結城に、機密に当たる捜査過程を話すとは彼らしくない。訝しさを表して見せると、今西の声はますます重くなった。 「広島の暴力団がばらまいているのは判っているが、もっと悪いのは、バックが居るようでな――龍世会の榊が、裏で糸を引いているという噂がある」 「何ですって」  自制を忘れて、結城は思わず声を上げていた。  昨晩の榊の姿と、八年前の事件でのそれが脳裏でオーバーラップした。  取引の現場に居合わせ、窓を破って脱出した榊。  幹部を逮捕された菅原組はあの後で別件の麻薬密輸が発覚して壊滅したが、榊が居たことまで判明していながら、菅原組の麻薬商売に龍世会が絡んでいる証拠はついに出て来なかったと聞く。  龍世会のトップが麻薬をひどく嫌っているのは有名な話だ、もし大幹部の榊が薬物取引に手を染めていることが伝われば、即時の破門は免れない。    けれど八年前からその片鱗もない所を見ると、よほど上手く立ち回っているのか?  いや――裏社会は殺される前に殺し、下の者が上を斃してのしあがる修羅だ。  会長が厭う行動を為していることは、榊を疎み排除したがっているであろう者たちには格好の口実となる。八年も無事でいられるとは考えがたい。  とすれば、答えはひとつ。  龍世会会長自らが、榊の行動を何らかの理由で黙認していることになる。 「――八年間、彼がずっとそうして来たと?」 「いや、ここ三週間の話だ。八年前の新宿の時と基本は変わっていない。敵対組織を上手く丸め込んで取引させ、警察の逮捕まで持ち込むか、ヤクの扱いに慣れていない奴らを割に合わない商売で自滅させている。その手際良さたるや、銃での抗争よりも遥かに鮮やかなものだ」 「何故、彼が背後にいると判ったのですか」 「内偵中だから詳細は言えないが、薬の出所の一致をもとに調べると、広島と大阪を結ぶ経路が先日判明してな……関東と関西の情報を掻き集めた限り、その大阪の後ろに榊がいるとしか思えないのだ。榊本人もすでに関西入りしているという情報もある」  関東を根城にする榊が唐突に大阪に現れた理由は、水面下で抗争を指揮し、暗躍するためだったのか――結城は愕然とした。そこへもってきて結城も近畿局にいると知ったとなれば、あの男は関西に居座るも同然であろう。  結城の顔に浮かんだ困惑を今西は初耳ゆえの動揺と受け取ったか、私がお前に会ったのはこれが理由だと締めくくった。 「榊が大阪に居るとすれば、お前がいつかは奴らの目に留まることもあるだろう。司直を真っ向から敵に回すほど奴も馬鹿ではないにしろ、用心に越したことはない。くれぐれも身辺には気を付けろ」 「は、はい」  もはや、今西の警告は遅い。  あの男の腕に抱かれ踏み拉かれた記憶を、身体中に残された朱を、肌の移り香を、元上司の慧眼に今にも見破られそうだと結城は恐れ、蒼ざめた。耳元に掛かった熱い息遣いもまざまざと再現出来る程に生々しい、情事の名残を。    元部下の動向にも未だ細心を掛ける上司の厚情に礼を述べた結城は、平静を装って会議室を去ったが、優れない顔色の奥底を読み取るかのようにじっと目線を当てて来た今西に、決して知られてはならない背徳の片鱗を見せてしまった気がして、しばらくは動悸が治まらなかった。
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