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『――大阪市天王寺区において押収された覚せい剤100グラムについて、成分分析の結果を以下に報告する。 1.実験 (1)試料  市販のポリエチレン袋に10グラムずつ分包されていた覚せい剤計10袋のうち、任意の3袋を選んで試料を採取し、n=3として各分析を行った。別紙添付写真の通り、試料形態はいずれも白色粉体。――』  夜の十時、誰もいない事務用の部屋で結城はテンプレートの上から報告書を淡々とタイプして行き、実験結果を書いていた。いつも通りの手順だった。  簡潔に結論まで書き終えてひと段落付けると、キーボードの傍らに置いてある分析結果のプリントアウトを横目で見遣った。  今日分析した試料は一ヶ月前に結城が分析し、中国から密輸されたと後に判明した覚せい剤と極めて類似していた。    麻薬に限らず、日本国内における華僑系の犯罪組織の台頭が著しいのは結城も充分知っている。喜ばしい話ではない。過去、日本人相手にすら手を焼いているというのに、ここで外国勢力まで混ざって来れば、どれほど捜査側が苦労を舐めさせられることになるか。  税関が水際阻止に全力を挙げようとも敵はあの手この手で監視の目を掻い潜り、擦り抜けて、海の彼方から魔の薬を広げ続ける。  だが悪辣な狡知に対してはこちらも忍耐力によって当たるのみだった、たとえ鼬ごっこと言われようとも。  結城は息を吐きながら手を止め、液晶画面ばかり睨んで疲れた瞼を押さえた。  一連の大量押収事件の分析結果については、捜査課との会議予定も入っている。それ相応の資料も二、三日中に纏めて整えなければ。時間がいくらあっても足りない。冷めたコーヒーをひとくち啜って実験ノートを開き、走り書きで読み辛いものに気付いて訂正を入れていると、胸ポケットの携帯電話が鳴った。死刑宣告にも等しい着信音を諦め混じりに耳にしながら、結城はボタンを押して応答した。 「はい」 『まだ来ないのか』 「仕事中なんだ、今日は無理だ」 『庁舎の前まで来ているんだがな』 「―――!」  ブラインドを折って窓の外を見下ろすと、言う通り黒塗りの車が停まっている。  ヤクザでありながら堂々と麻薬取締部に電話を掛けて来たことといい、車を横付けすることといい、榊の大胆さには際限がない。  裏口から出ても配下が待ち構えているだけだろう。  このまま鑑定室に籠って夜明かししてやっても良かったのだが、周辺の人々に迷惑が掛かる。  結城は壁に拳を叩き付け、どこまでも踏み込んで来る男とそれを防げない己にやるせない憤怒を覚えながらPCの電源を落とし、コートを鷲掴んだ。  警備会社のシステムをセットしてから取締部を後にして階下まで降りて行けば、車に背を預け、待ち構えている榊の姿があった。  榊と逢い始めてから、五日が経過していた。  どんなに避けようと拉致紛いの手段で身体を拘束されるのは、八年前で身に沁みている。  空洞になった心に諦念だけを抱えて、抜殻のように抱かれる夜だけが続いた。  今日も仮の住まいであろう高級マンションに連れ込まれ、寝室に入るなり、服も脱がない内に背後から捕らえられる。スラックスの上から宥められて早や息が乱れる己を疎ましく思いながら、榊の体躯から放たれる男としての力に結城は酔い痴れ、目を閉じた。  麻薬取締部に属する同性を女と同様に扱い執着する若頭を、部下たちがどう受け止めているのかは量りかねたが、疑念や常識の反発がもし彼らの内面にあったとしても、榊の圧倒的な支配力の前ではそれらを不満に思うことすら憚っているに違いなかった。    壁にやや乱暴に掌を突かされ、ワイシャツもスラックスもいい加減にはだけられた。  暖房は効いていても下肢が心許なさに一瞬身震いした。だが足の付け根を包み込む榊の両の掌が、首筋を舐める舌先の淫靡さが寒さをすぐさま忘れさせ、それ以上の温度を掻き立て始めた。  肘を折り、胸部も壁に押し付けるようにして悶える結城の腰に密着した榊のそれもスラックスの向こうで激しい欲望を示しているのに、手付きはどこまでも冷静だった。 「ん……っ」  一週間近く苛まれ、体力を使い果たしたと思っていても、榊にかかるとこの有様だ。  尽きることを知らない水脈のように、この男によって穿たれる度に奥から欲情が噴き上げ、燎原の火の如く全身を焦がす。  もうすぐ高みに手が届く、そう思って待ち構えていると、いきなり身体の向きを変えさせられた。一体何をと考える暇もなく、唇で深く呑まれる。 「榊、だめだっ……ああ――!」  数度舌で嬲られ、あっという間に彼の口中で果ててしまった。  膝の力が抜け、ずるずると座り込んだ結城を、榊はそのまま床に組み伏せた。すぐ傍にベッドがあるというのに、その数秒すらも惜しいとばかりに。 ※ ※ ※  痴態の限りを尽くした後で、疲労にベッドでうつらうつらしていた結城の耳に、榊が電話で指示を出している声が届いた。響きが遠い。ドアを開けたまま、居間で話しているようだ。 「いや、広島の方は仁英会に任せろ。大阪からは出るな。……判ったな」  広島と大阪が繋がり、その黒幕が榊であるとの今西の言葉を、結城は忘れてはいなかった。  榊の言動から、今後の動向をも見極めようと決心していた。彼に一矢報いるというよりも、麻取としての意識と、憎悪によるものだった。  今の地位を知られてしまったからには、榊の手はもうこちらからは振り払えない、ならば榊が官憲によって社会から消し去られるより方法はないではないか。  自分の決意が裏切りだとは微塵も考えなかった。  もともと親愛の情など有してもいない人間を、正当な法の裁きに委ねることの何が背叛だと云うのだ?  良心は少しも痛まなかったが、代わりに不気味さが日に日に募っていた。    犀利な榊が、結城に不利な事実を入手されてしまうことを考慮しないはずがない。  それを八年前も今も、恐れ気もなく平然と結城をマンションに呼び、部下との会話も隠そうとしない。わざと偽りの情報を口にし、撹乱を狙っているのかも知れない。  念に念を入れた情報と情況のスクリーニングが必要であり、緻密な判断力が要求されるだろう。  そればかりか、情報源としてこちらが逆に利用される場合も充分有り得る。  榊は仕事のことを訊ねるでもなく、ただ身体を求めてきて抱くだけだったが、些細な言葉から捜査状況を遡られてはならないと思い、結城はろくに口も利かないようにしていた。  だが結城の思惑を独特の洞察力で見透かした榊は、嘲るように明言したものだ。お前を利用しなければならないくらい落ちぶれてはいない、と。  随分な物言いに結城は気分が悪くなったが、その程度の宣言を聞いたところでこの男の言うことなどあてにならないと考え、用心は怠らなかった。    情事の痕を洗い落とすべく、ベッドから起き上がった。サイドボードの時計は午前二時を指している。一時間ほどまどろんでいたらしい。  腰の鈍い重さを無視して羽根布団をはぐると、一足先に身形を整えていた榊が居間から戻って来た。  結城が先刻の会話を聞いていたことを察したであろうに、特段の関心も示さない。  その代わり、結城の裸体をちらっと視線でなぞった。己がそこかしこに散らした占有の朱を堪能でもするかのように。  かっと頬に血が上りそうになるのを堪え、結城はワイシャツだけを羽織ってスーツを片手に纏め、シャワールームに入った。    温かい湯を頭からかぶり、榊の男の薫りを残らず消滅させようとも、胸が晴れようはずがなかった。  結城の身体以外では満足出来ないと榊は言った。  ならば、もし肉体と精神が分離出来るものならば今すぐにでも榊にこの殻を与え、自分は別の器を捜すだろうに、人間はそこまで器用には出来ていない。  心身は一体であるが故に、身体が侵されれば、精神も侵されるのは免れない。  なお悪いのは、結城もまた榊以外の人間とは昂ぶりを迎えられないことだ。  極上のワインの味を知った者が、どうしてそれ以下の品で満たされよう。  果実は豊熟の頂点から朽腐への下降を辿る過程がもっとも甘いものだ。爛熟の果実を十代にして掴まされ、榊によって口移しに与えられた時点で、末路は自ずから定まったも同然であった。  それが判っていても、結城は足掻きたかった。  一方的に仕掛けられた目的の見えない闘いに、二十数年も翻弄され続けたのだ。今度こそ決着を付ける時だろう。作戦のいかんを問わず、為せる全てを使ってでもあの男を葬らなければならなかった。  痛みが伴おうとも、破壊作業が起こっている箇所を切り棄てれば、残部はまだ生を得ることが叶うのだから。  一分の隙もないスーツ姿でシャワールームから現れた結城を、居間で洋酒を飲んでいた榊はゆったりと見詰めた。  ホルスターに入れた拳銃を隠そうともせず、テーブルには鞘に収まった匕首が置かれているが、結城は無視した。  こちらに向けられたのは危険を愉しむような、どこか尊大な相貌だった。  もしかしたらこちらの報復の意思を嗅ぎ取っているのかも知れないが、それは計画の範囲内であり、悟られていようといまいと、結城はどうでも良かった。  琥珀色の液体が沈んだグラスを右手で弄んだ男はもう一度中身を呷った後で立ち上がり、自身も黒いコートを取った。 「飲酒運転だ」  自宅まで送るという意志を、そっけなく結城は断った。  しかし榊は無言で聞き流し、コートの袖を通した。  やむなく彼の運転する外国車に乗り、郊外のマンション前まで運ばれた。ごく短い礼を言って助手席から降りようとした瞬間、後頭部に掌を回され、あっという間に接吻を仕掛けられていた。結城の同意など必要なく、盗むのが当然の権利とでも言わんばかりに。  芳醇な薫りがくちびるから伝わり、口腔内を擽る舌に思考力を蕩かされる。  密室で繰り広げられる、ごく一瞬の秘めやかな交歓。  淫猥に濡れた唇がわずかに離れ、物憂い睫を上げた先には、榊の眸があった。  結城の魂の奥底から掬い捕らえんとする程に侃い眼差しは、謎めいた嗤いを含んでいた。 「お前は俺からは絶対に逃げられないんだ、雅人。――いずれ、お前にもその事が判る。近いうちにな」  低い囁きで榊はそう断言し、結城を解放した。  不吉な宣告を振り切るように結城はエントランスへ一気に入ったが、確信に溢れた榊の表情が内面に陰を落とし、徐々に暗色に染め上げようとしているのを喰い止めることは出来なかった。
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