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 上小路昭一郎という名を、幾度詛ったことか。  娘の雅美を一度は他の男に嫁がせながらも、遅くに得た一粒種を溺愛するあまりに無理に離縁させ、歪んだ愛情を注いだ結果、子まで為した人間。  それが、結城の実の父親だった。    結城は二人の間の子供であり、生まれながらに罪を着せられてこの世に送り出され、父の過剰な愛を疎んだ母――姉妹とも呼べる女性によって、友人の素封家に養子として預けられたのである。  子供がなかった養父母は雅美から雅人の出生の秘密を聞かされていたが、何も知らぬ幼い童子には痛まし過ぎる真実の重さに、本人には決して伝えまいと誓い、本物の我が子同様に大切に慈しんだ。  豊かな環境で幸せに包まれて育ち、本来であれば一生知る事もなかった結城が秘密を知ってしまったのは、全国的に有名な財産家だった上小路家の内紛によるものだった。  昭一郎は亡くなる間際に『雅美に財産の八割を譲る。自分が認知した婚外子二人についても残りの財産を分配する』という遺言書を遺したが、縁戚が黙っていなかった。特に反発を示したのは、昭一郎の妹とその一家だった。  雅美がいくら鍾愛の一人娘だからといえど、離縁して子供もいない女性に家督を継がせれば上小路の家は断絶すると猛反対した。  昭一郎が言及した婚外子のうち、一人は華道の榊流を率いる榊江里子との子供であることは当たりが付けられていた。榊江里子が昭一郎の長年の愛人であることは、一族の間では知る人ぞ知る事実だった。  では残る一人は誰かと親戚たちは血眼になったが、骨肉の争いの渦中で雅美は沈黙し続けた。  財産など要らぬ、必要最小限の金さえあれば家を出て行くという意志と、息子を守るという愛情の許に。父との愛憎の結晶であり、永遠に忘れたい過ちを体現している存在であっても、彼女に取ってはやはり我が子であったのだ。    叔母の脅迫も受け流し、相続放棄すると宣言した雅美を阻んだのは、昭一郎の旧友でもあり、顧問弁護士でもある立川だった。  生前の友人から秘密裏に預かっていた一通の封書を『黙っているべきではないと思ったので』と彼が提示した時、並み居る親族たちは信じがたい内容に絶句し、馬鹿なと嗤う者すらいた。  ――雅美との間に一子を儲けたこと、出来うる事ならば自らの手でその息子を育てたかったこと。  気付いた時には雅人は母によって知人に預けられてしまい、ためにやむなく手を引いて、遠巻きに成長を見守っていることが、連綿と書き綴られていた。  毛筆による見事な筆跡はまぎれもなく昭一郎本人のものであり、印も捺されていた。    雅美がいかに父親に溺愛されていたかは皆も承知していたが、いくら何でもこれは、というのが総員の一致した意見だった。  立川は旧友の遺志を叶えるべく雅美や縁戚の説得に当たったが、肝心の雅美本人が一切の交渉に応じなかった。  困り果てた立川は結城夫妻を訪れ、雅人に会わせて欲しいと願い出たのである。もし息子の雅人が実父の財を欲しいと言えば、雅美もきっと折れ、父との間に息子がいるという証言に乗りだすだろうと。  当時の結城は高校に無事合格し、父母を喜ばせたばかりだった。  よく頑張ったと褒められ、祝いに海外旅行にでも行こうかと両親に提案されたので、目的地をあれこれと夢見ては調べていたところだった。  厳しくも優しく、己を誰よりも慈しんでくれる両親を結城は心から愛していた。  父が製薬会社を経営していた関係で将来は薬学部に進むのだと早くから決めており、目標に向かって着実に努力を積んでいた。  だが、幸福な生活は唐突に現れた老弁護士によって崩壊した。  結城夫妻はなぜ今更になってと立川の訪問に嘆き、雅人に報せるべきか報せないべきかと悩んだが、ただの成金ならともかく、日本国内でも上位に入る上小路一族の財産諍いである。争いに巻き込まれてからでは身を守れないと決断を下し、ついに真実を話した。  雅人が養子であり、実の父親は先般亡くなった上小路グループの総帥であることも。    結城は、最初は我が耳を疑った。  両親に容姿が似ていないことは察していたが、そういう親子は幾らでもいることだと、自身の出自に対する自信は揺らいだことはなかった。  それなのに、自分はこの大切な両親の実子ではないという。地元に絶大な支配力を持っているのみならず、全国で一流企業を経営している上小路一族の名前は知っていても、しょせん遠い世界の人々だ。総帥が父親と述べられても、まったく実感が湧かなかった。 『じゃあ、僕は父さんと母さんの子供じゃない、と……?』  真っ青になって首を振る養子に、養母は涙を流しながら首肯し、それでもお前は私たちの息子だと言った。 『お前は、私たちの大事な子供よ。父さんも母さんも、お前を大切に思っているのよ』  結城とて、血が繋がっていないと教えられても、養父母への愛情は渝らなかった。  実父の遺産も欲しくもなかった。  ただ、父の名を知らされながら、母の名を空白のままで放置することは出来なかった。苦悩を浮かべる養父を呆然と眺めてから、結城はソファに座っている養母の前に膝を突いた。 『じゃあ、母は……僕の本当の母親は、誰なんだ。教えて、母さん。知っているんだよね? 僕は母親に捨てられたの?』 『雅人……それは……』  二人は顔を見合わせた。  大人になったら教えてあげようとも養父は提案したが、しかし結城は強硬に詰め寄った。  たとえ自分がまだ子供であろうと、ここまで告げられていながら真相を隠されるのは我慢のならない話だった。実母のことを知ることで気持ちのけじめを付けたいのだと懇願する熱意に、夫妻はついに負けた。  本人の言う通り、これでは納得が行くまいし、嘘を言っても見破られてしまう気魄を養子の上に認めたのである。  そして、十五歳の結城は打ち明けられたのだった。  実母は上小路雅美という女性で、昭一郎の娘でもあるという、おぞましい真実を。 「いつ……いつお前は父親のことを知ったんだ、榊」  絶望のあまり身体中の力が抜け、床に膝を折った結城が空ろな声で問いを発すると、お前と同時期だという答えが返って来た。 「父親は死んだなんて言われていたが、俺は自分がどこかの男との私生児なのは薄々判っていた。親父が死んだ時、立川弁護士は俺の家にも来たんだ」    立川は榊江里子の屋敷も訪問し、孝一郎に遺産の一割が与えられることを報告したが、江里子は断った。  華道の名門当主として有りあまる資産を保有していた彼女は、財産に淡白な女性だった。二人が話している応接室の外で自分は一部始終を残らず聞いたのだと、榊は続けた。 「お袋がお前の名前を口にした時は、まったく驚いた。『遺産を頂くつもりはございません。孝一郎には私が充分な財産を残してやるつもりですし、だいいち上小路様には、お嬢さんの雅美様との間に雅人君というお子がありますのに、何故こちらにまで財産が来ますの? 雅人君は孝一郎のクラスメートだったこともありますので存じ上げておりますけれど、結城様がお育てになっただけあって、本当に聡明で立派な子供さんですわ』と来たからな」  腹心の愛人として上小路に愛された江里子は、雅人に関する秘密も教えられていた。  学歴に意を払わなかった息子が中学受験したいと申し出て合格した時も、江里子はそのことを愛人に報告していた。  孝一郎の聡い成長振りを昭一郎は喜ぶと同時に、同じ中学に進学している雅人の様子も聞きたがったため、江里子は雅人の人となりにそれとなく注視し、挨拶も与えたのだった。  結城はそこまで聞くと、ぼんやりと手元の書類に視線を落とした。  父母との続柄に『長男』と書かれるべき榊の欄には、『男』と記載されている。婚外子であることを遠回しに記述するものである。 「――俺が中学受験しようと思ったのは、お前を見掛けたからだ、雅人。附属小の制服を着たお前が結城の両親に連れられて歩いているのを見て、俺はお前の近くに行こうと決心した。後から考えてみれば血のせいだったのだろうが、顔が似ていた訳でもなし、不思議なものだな。お前のことが忘れられなかったんだ」  感情を、思考力を喪っている結城の視野に、榊の表情が映った。  今まで何度となく目にして来た傲慢で冷たいそれではなく、どこか惹かれずにはいられない不可思議な色合いが滲んでいた。  他人の仮面を脱ぎ捨て、血縁であると告白しているためだろうか。 「お袋はどちらかと言うと、俺にとっちゃ他人も同然でな。昔から何もかもがつまらなかったし、興味の持てるものなんて何一つなかった――だが、お前だけはそうじゃなかった。俺たちが兄弟だと知った時は、これかと思ったものさ。だから、お前を抱いた。お前を誰のものにもしないために、そして死にたがっているお前を生かすために」 「俺を、生かすためだと……?」 「そうさ。お前が両親のことを知って、自分を殺したがっているのは判っていた。だから、ああした。腐蝕が始まった部分は早めに斬り捨てなければ、残りまで死んでしまうからな」  破壊作業が起こっている箇所を伐れば、残部はまだ助かるとの己の思念を、結城は思い出した。  何という合致だろう。図らずもこの男も、まったく同じことを考えていた。  榊は結城が兄弟であると知っていて、いや、知ったからこそ身体を奪ったのだ。実の父と母の、醜悪と呼ぶことすらも憚られる関係によって生を得た己を厭悪し、死をひたすら願った絶望を見越し、絶望ごと打ち砕く衝撃を与えることで結城に生を選ばせたのだ。    そんな憐れみなど何になるだろう?  生の代償がこの二十数年を榊という枷に悶え苦しむ刻であったのならば、いっそあの時に死なせてほしかった。  結城は自分に何も教えなかった榊に向かい、憤激の全てを籠めて絶叫した。父娘の間に生まれたということでさえ疎ましすぎるのに、兄弟であり同性である者同士での交情という背徳をさらに重ねさせた男に。 「何故、どうして俺たちが兄弟であることを黙っていた!! 知っていたのなら何故俺に言わなかった!?」  榊は結城の怒りにも眉一つ動かさず答えた。 「切り札は最後に出すものだ、大勝負なら尚更にな」  言いざま、昨日付けの新聞をぽんと投げて寄越した。  社会欄が表に折り畳まれ、中程度の見出しで掲載されている一家心中の記事が、嫌でも目に付くようにされていた。  広島市で、覚せい剤に狂った二十三歳の若者が借金を重ねた挙句に家庭内暴力を振るうようになり、財産も使い果たして絶望した父親が、息子と老父母を連れて車ごと海に飛び込んだ記事だった。    榊を睨み付けると、相手は残忍な微笑を湛えるばかりで付言を発さない。  ヒントはこちらの手元に渡してあるらしい。  榊の戸籍謄本の下に別の家のコピーもあると遅まきながら気付いた結城は、ざっと読み下した。    どうやら上小路昭一郎の妹が嫁いだ先の謄本のようだったが、筆頭人の『鳥居』という名字にたちまち引っ掛かった。  既視感などというものではなかった――先刻の記事で、家庭内心中の引き金を引いた父親が鳥居稔という名前だった。道連れの老父は、鳥居善次郎。そして上小路昭一郎の妹の息子も、鳥居善次郎と記されている。  善次郎の孫が覚せい剤の誘惑を知ったのは、もしや……  推測を確かめようと顔を上げた結城に、榊は喉を鳴らした。 「お前が親父と娘の間に生まれたなんてことは、かえって信憑性が薄いと取られた。だが俺はそうは行かなかった、愛人の息子だしな。お袋が遺産は要らないって断ったのに、鳥居の叔母たちは信じなかった。お袋はそれを察して、俺を東京の大学に進学させることで逃がそうとしたんだ――逆に奴らは俺が一人暮らしをしているのをいいことに執念深く付け回して、何度も殺そうとした。だから俺はこの世界に入って身を守るしかなかった」
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