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さもおかしそうに、榊の語尾が嗤いに中断した。
愉快でたまらないように口元が歪んでいたが、眺めている結城に取っては背筋が底の底まで凍り付くような笑いだった。
仮にも身内を、と非難しかけた結城の反論は、幾度も命を狙われたという榊の過去の前には効力を為さない。
「上手いこと叔母と従兄弟が持って行った遺産はどうでも良かったが、俺を殺そうとした奴らには必ず報復してやろうと思っていた。お前が大阪で麻取の鑑定官をしているのを知って、いいチャンスだと思ったよ。広島の仁英会が鬱陶しくて、関西入りを考えていた所だったしな。華僑の連中も丸め込んで潰して、一石三鳥というわけだ」
昨日で鳥居家のけりが付いたことから、華僑と仁英会との取引を早めたのだと榊は語った。
間接的とはいえ、彼が暗躍したことによって麻薬に染まった者の悲劇は今西から聞かされたばかりだ。
鳥居一族が自滅したのも愚かな息子が薬に狂った所業によるものであり、陰に榊の意趣が潜んでいることなど、警察も想像さえできまい。
結城は、身動きすら忘れていた。
巧緻極まりない策による犠牲の大きさと、そこまでの犠牲を払ってまでも己を捕らえんとする男の、凄絶なまでの独占欲の深さに。
掌でようやく上体を支えていた結城の前に、ソファから下りた榊は片膝を突いて、目の高さを重ねた。
「龍世会の杯を貰ってからも、お前の消息を探し続けた。見付からなかったのも道理だ、麻取になっていたのならな――八年前は偶然逢えたことに油断してお前を逃がしてしまったが、これからはそうはさせない……俺から逃げたいなら逃げるがいい、だが俺はお前がどこに居ようと必ず探し出す。言っておくが命を棄てれば助かると思うな、お前が死んだら墓を暴いてやる。俺が死んだら、お前を舎弟に殺させる」
顎をぐいと掴まれ、目を愕然と見開く結城に、榊の尊大な微笑が映った。
「判っただろう、お前は俺のものだ。この世でたった一人の兄弟なんだからな。お前さえいれば、俺は何も要らない」
肩を、榊が両腕で抱いた。
今までのように奪い、蹂躙し尽くす荒々しさではなく、包み込むような体温だった。
今度こそ結城を捕らえ得たという充実が、血と秘密の共犯者であるという狎れとあいまって、突き放すような冷酷さを和らげていた。
榊がこうまで求め続けた目的が空虚なものではなく、己でなければならなかったのだと知った瞬間から、結城の胸にはこの男と離れることは思いも寄らないほどの、名状し難い感情が溢れようとしていた。
愛情というよりも、ひとつの生命を二つに分かち合って生きているような、そんな想いだった。
「俺と来るんだ、雅人。Yesと言えば、華僑に連絡して取引場所を変えさせる。そうすれば、麻取と鉢合わせすることもない。捜査は空振りで終わることになるが、鏖殺されるよりはましだろう」
――完全な敗北を、悟った。
中学に入学する以前から目を止め、血と性別の障壁を越えてまでも鎖に繋ごうとした男の罠に、己は出会ったときから陥っていた。
もはや、何処にも逃げられなかった。
八年前の偶然は偶然ではなく、互いの命運が重なっているがゆえの必然だった。
どれほどもがこうとも始めから榊の傍以外に己の居場所はなかったのだ、榊が結城の傍以外の居場所は要らないと言ったように。
二人の中に等しく流れる、娘を求めたほどに内なる絆を渇仰した父の血が――あるいは狂気が、そうさせているのかも知れなかった。
結城は、頷いた。
同僚たちを助けたいからではなく、榊と生きることを選び、その結果として取締官たちの救済を請うたのだった。承諾の意に深い接吻を返した榊の項に、結城の腕が回った。
※ ※ ※
結城は、麻薬取締部を退職することにした。
一身上の都合だと表明し、上司にも詳しい事情は伝えなかった。
周囲は驚いて引き止めたが、故郷に帰らねばならないからと虚偽を教えると、それ以上は皆も何も言わず、辞表は受理された。
一ヶ月掛けて業務の整理を済ませてから、最後に広島に電話を掛けた。今西にだけは、真相を伝えようと思っていたからだ。向こうにも結城の退官の報はすでに伝わっているはずだった。
夜の九時という時刻だったが、事務官の取次ぎからほどなく、今西の低く静かな応答が返って来た。
『いよいよ、行くか』
「はい。長い間、お世話になりました」
短いひとことにも、今西の恩情が籠もっていた。
息を一瞬引いて気を鎮めた後、榊との真実を語ろうと口を開きかけた結城の気配を察したように、今西が制した。
『何も言うな。榊のところに、行くのだろう』
「………」
『いつか、こうなるのではないかと思っていた……お前が八年前、榊と知人だと私に伝えた時からな』
人生経験も豊かで聡明な今西は、薄々ながらも、榊と結城の尋常でない繋がりを――身体関係までは思い至らずとも、断ち切れない何かがあると――察していたのだろう。察していながら何も言わず、口を差し挟まなかった度量に、結城はただ感謝するしかなかった。
一旦言葉を切った今西は深い溜息の後で、押し出すように言を継いだ。
『私は残念だ。本当に、残念に思っている。無念極まりない』
「――申し訳ありません」
結城が榊を断ち切れないことではなく、麻薬取締部を辞め、闇の世界に消えざるを得ない運命にあったことを今西は嘆いていた。
八年前に榊に再会さえしなければ、彼の許でいささかなりとも役に立つことも出来たのに、何という残酷な巡り合わせだろう。受話器を握り締めたまま結城は目を閉じ、震える声で詫びた。敬愛していた恩人にこのような形で報いることになった歯痒さと悔しさが胸を締めつけた。
『お前が決めた道だ、私が言っても、繰言に過ぎん――くれぐれも、身体を大切にしろ。幸運を祈っている』
「ありがとう、ございます」
皮相なものではない、軽蔑もない、今西の父親のような慈愛が、哀しいほどに心に沁みた。
相手には見えるはずもないが深々と頭を下げた結城は、通話が切れたのを確認してから、静かに受話器を置いた。
これで、全てが終わった。
後に残るのは、血を頒った者と共に歩む修羅の道のみ。
以後は血族の詛いを身に受け、切っても切れない業に絡め取られ、この世で唯一の兄弟と狂った刻を共有するのだ、生命が尽きるまで。榊の裡に棲む飢えた獣を宥め、更なる罪へと進ませないように喰い止めることが為せるのは、己だけなのだから。
宿命というものがもし存在するならば、己と榊以上に呪わしい絆に繋がれた者はいまい。
だが、三代の長きに渡って骨肉相食んだ果てがこの背徳とするならば、この帰趨とするならば、相克に侵された一族の終焉にはふさわしいのかも知れない。
それらを甘受すると決心した以上、結城は榊と生きることに迷いはなかった。
コートとアタッシュケースを右手に結城は部屋の外へと出て、『近畿厚生局麻薬取締部』と銘打たれたプレートをしばし凝視した。
二十三の春から十三年を司法警察員として歩み続けた縁が、今こそ切れる。
振り返ってみるに、悪夢の中で、そして生と死の間で懊悩し続けた、幻のような日々だった。
在室していた捜査官たちや鑑定官、事務官たちの見送りに丁重に一礼してから、結城は庁舎の外へと出た。
街灯が途切れた夜闇の向こうで、榊が待っていた。
数日前に迎えに来た時のようにコートを肩に掛け、車に凭れて。
結城は、真っ直ぐ彼に歩み寄った。アタッシュケースを地面に置いてから、身を起こした榊の項に左手を回し、顔を近付けた。
息遣いを混ぜ合わせるような淫蕩な誘いに榊も応え、結城の唇をゆっくりと、しかし烈しく塞いで来た。
自ら接吻を仕掛けたこの行為が、榊に対する結城の想いに他ならなかった。どこまでも命運を共にし、生死をひとつにするとの。
顔を離した榊の眦が僅かに細まり、結城を見下ろす。
言葉がなくとも、答えの意味を彼も判っている。満足そうに歪んだ薄い口元が、そう語っていた。
互いに無言のまま、開かれた助手席に結城は乗り込んだ。運転席に座った榊が、エンジンを掛ける。
徐々に加速を強める車の窓から、結城は外を眺め遣った。
この先に何が待ち構えているのか。恐らくは、外を流れる夜景よりも深く暗い深淵であろう。
いつか至る終局は破滅への道か、それとも煉獄への門か。
推し量ったところで神ならぬ身に正答など判りはしない、生涯の終わりまで。
それはそれで良いと結城は考えていた。幾重にも絡み付き、生命を賭しても断てない鎖の存在が、不確かな物全てへの曖昧な感情を排除していたからである。
何をもってしても離せないほどに確かな物は、ひとつ有するだけで充分だった。
榊と同じく前方を見据えた結城の心は、澄んでいた。
過去も逡巡も光の彼方に棄て、漆黒の闇を選ぶことによって初めて得ることの叶った静謐だった。
―Fin―
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