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藤崎が俺の顎を掴み、自分の方へと向かせようとした。
だが俺は顔を逸らし、その唇を避ける。
捕らえようとする腕の動きに逆らい、俺は身体ごと逃れて、男の体温から遠ざかった。
何故とも、藤崎は尋ねようとはしなかった。
以前にも同じように俺は逃げて、その際に与えられた問いに答えていたからだ。
同じ理由だと言う事を承知しているのだろう。
背を向けて寝室の敷居を跨ぎ、リビングに行こうとしても、藤崎の手が腕をいきなり掴んだ。
到底逆らえない程に強い力で引き戻され、無理矢理唇が塞がれる。
またも素直に言う事を聞かない俺に苛立っているのか、簡単に諦めた前回とは異なり、掌が俺のウエストに掛かった。
強引にシャツを剥ぎ取られ、ジーンズも落とされて、ベッドに押し倒される。
揉み合っても、結局は藤崎の腕力に負ける。
こいつは武術に長けていて、体格も俺より一回り大きい。幾ら俺が普通の男並みの力を持っていても、敵わないのは端から判っている話。
それでも逆らうのは、こんな時を望んでいるのではないからだ。
スーツを脱ぎ捨てた熱い身体が、俺の上に覆い被さる。
鍛え抜かれた藤崎の身躯は、痩身なのに逞しい。42歳という、俺よりも15歳も年上の年齢でありながらそれをまったく感じさせない。寧ろ男盛りの肉体で、この腕に包まれただけで俺は気が遠くなりそうになる。
それなのに。
愛している、この男を誰よりも愛しているのに、抱かれる度に心が冷えて行く。
身体は迸る快楽で満たされても、胸の奥には空々しさだけが積もって行く――
※ ※ ※
藤崎が、先に身体を起こした。
俺は体力を使い果たして、瞬きをするのさえ億劫だ。
そんな俺をこいつは軽々と抱いて、一緒にバスルームへと入る。
贅沢な高級マンションの浴室は、有り余るスペースを活用した造りになっている。
俺がこれまで住んでいたようなアパートの、小さいユニットバスとは比べ物にならない。
大理石の装飾タイルが壁に張られ、観葉植物まで棚に置かれてあって、この部屋を週3回掃除に訪れる家政婦が毎回手入れしているのだ。
大きなバスタブに藤崎がボディージェルを落とし、湯を上から注いでバブルバスにする。
俺はその中に下ろされて、自分の周りに湯が溜まるのをぼんやりと見守った。
ふんだんな湯量があっという間に浴槽を満杯にするなやいなや、藤崎も横に入った。というより背中側に回って、俺を前向きに膝に抱く姿勢で。
二人で入る時は、いつもこうなのだ。
抱擁の後に必ず行われる、このプロセス。
「……明日、大阪に出て来る。あちらで最近、守下組の動きが煩いからな」
「…そう…」
俺は短く答えると、藤崎の肩に後頭部を預けた。
この男は通常の職業には就いていない。
所謂広域指定暴力団と呼ばれる組織を率いている、三千人の配下の長だ。
藤崎組の組長、藤崎冬堂。それがこいつの名前であり、地位。
行き付けのバーで一人飲んでいた俺に目を止め、そして情人とした男なのだ。
藤崎の許に連れ去られて以降、俺は『事故死』した事になり、表社会での存在を抹消され、今は彼の所有するマンションで暮らしている身だ。
マンションと言うより、俺に言わせれば牢獄に等しいのだが。
頬に当たる湯気と、傍の体温の心地良さに目を閉じる。
こいつが好むロリス=アザロの薫りを含んだ蒸気。
ローションから石鹸まで俺の身の回りはこの芳香で統一されてしまい、今ではパヒュームを付けなくてさえ、俺の身体からこの薫りが仄かに漂う程になっている。
俺の肌からゆっくりと情事の痕を落とす掌、その掌がさり気無く腿を撫でる感触。
背中に当たる胸板の精悍さ。
藤崎の情人になってから半年、俺の感覚は何から何までこの男の身体を覚え、馴染んでしまった。
脇腹を洗っていた掌が、当然のように足の付け根に滑り降りる。
どんな意図を持っているかなんて、考えるまでもない。
「やめっ……!」
「別に構わないだろう」
「明日は関西なんだろ、だったら朝早いんだから、もう止めろよ」
力の入らない腕で、何とかそれを払い除けた。
先刻思う存分抱いたから藤崎も気が済んでいるのだろう、すぐに引き揚げた。
身体を洗い終わると湯を入れ替えて、頭も洗われる。
全部藤崎がそうして、俺はされるがままだ。
腕を上げる気力が無いのもあるし、二人で入る時は必ずそうされる習慣だからというのもある。
これらを見た他人はきっと、俺が人形のようだと思うに違いない。
その通りだと、自分でも思っている。
何もさせて貰えず、この空間に囚われて、藤崎に抱かれるだけの自分を。
※ ※ ※
藤崎は朝早くにマンションを去った。
取り残された俺はベッドで暫く寝転がった後、朝の9時過ぎに仕方なく起き上がる。
仕事をしていた頃は朝早い定刻に起きるのがあんなに辛かったのに、仕事を辞めさせられた今では、逆に目覚めが早い。
昼過ぎまで寝ようが、夕方までベッドに居ようが、誰も咎めはしないのに。
少し乱暴に抱かれた余波で、いささか腰が重い。
それを宥めすかしつつ寝室から出て、キッチンまでゆっくりと歩く。
マンションの8階を丸ごと占めているこの部屋は、下手な一戸建てよりも床面積が広くて、数歩歩けば全てに手が届く1DKとは訳が違う。
やっとキッチンまで到達した所で自動式の遮光カーテンを開け、薄いレースのカーテン越しに朝の陽光を浴びると、少しは気分が明るくなった。
働いていた時なら、今の時刻は会社の席に着いてPCの電源を立ち上げている頃だ。
まだ眠気の取れない頭を叩きながらメールのチェックをして、一日の業務を始めて。
そろそろ調子が出て来た時に昼休みで、同僚と昼食を食べに出る。
藤崎と出会う直前まで付き合っていた同期の中尾洋一と、しばしば二人でハンバーガーショップに行ったものだ。
あいつと別れてからは、一人で別の喫茶店に行ったりしてたけれど。
――洋一との関係を自然解消してしまった憂さを忘れる為に、ふらりと立ち寄ったバー。
そこで俺は藤崎に会ってしまった。
今となっては、会社時代も遠い話に思える。
世間から遮断された部屋に居る生活を半年も送っていると。
洋一は今頃、どうしているだろう。
俺の偽りの事故死を耳にした時、少しは悲しんでくれただろうか。
そろそろ女の子と付き合ったりして、死んだ人間にされてしまった俺の事なんか、忘れているかな。
両親も兄弟も居ない俺は、社会的に抹殺されても、特別悲しむ人も居なければ、事故の報を訝しむ人間も居ない、天涯孤独に等しい身だった。会社の同僚や友人達だって、いざ死んだとなるとすぐに縁が切れる程度のものだった。
こうして藤崎のマンションに攫われていても、誰も心配もしない。
だが、安楽な暮らしが出来て嬉しいと感じるには、俺は余りに普通過ぎた。
働かずに生きる事に慣れていないんだ。
大の男が別の男にこうして養われて生きるなんて、どこかおかしいと思ってしまう。
俺を『事故死』させて社会から切り離してまで、自分のサークルの中に閉じ込めようとする藤崎の行動に、付いて行けない。
だから、「俺は何の為の存在なんだ」と思い始めるのは、ごく自然な流れだった。
藤崎に取って、俺は何なのかと。
会話はあるけど少ないし、あいつは積極的に心の動きを話すような事もしない。
何を考えているのか判らない。俺の事をどう思っているのかも。
俺は気紛れに欲望を解消する為だけの人間なのか。
仕事もさせず、日がな一日中このマンションで過ごさせ長い時間を送らせて、あいつが俺に求めるのは身体だけと来れば、そう思っても無理は無いだろう。
外に出たくとも警備システムが厳しくて、藤崎と一緒でなければ到底出して貰えないし、仕事をしたいと言っても一蹴されるだけ。
俺の行動の何もかもがあいつの監視下で見張られていて、自由なんて何処にも無い。
まだ心を通わせているのなら我慢は出来た。
身体以外の何かを――俺の心や感情を求められたなら、俺はただの人形ではないのだと考える事も可能だったろう。
けれど藤崎はこのマンションに来ても、たまに食事をして、組の仕事の話を僅かにする程度で、俺の事など何も尋ねもしないし、考えに耳を傾ける素振りも見せない。
一度彼の為に食事を作って、手を切った事があったが、それも藤崎は『危ない事はするな』と言っただけで、表情も変えたりはしなかった。
なまじ藤崎を愛しているから、俺はそれらの数々が辛くて堪らなかった。
愛しても愛しても、噛み合わない。
俺を抱く時のあいつは真剣だから、きっと身体の欲求だけではない何らかの強い感情が、彼の中にもあるのだとは思う。
だがこうやって身動きを制限され、安逸な生活を贈られたって、それは俺に取っては愛情の形じゃない。
恋人なら、横に並んで同じ高さに立ちたい。俺も男なら尚更だ。
稼ぎは少なくても仕事をして、自分の足で立って生きて、そして頻繁に話を交わしたりしていれば、こんな情けなさは覚えないのに、働きもせず養われて生きるなんて、天秤の傾きが圧倒的に下じゃないか。
全然あいつと対等じゃない自分が、惨めだと感じた。
それからだった。
藤崎に抱かれるのが、苦痛になり始めたのは。
俺の感情は藤崎を愛している。しかし理性が感じている屈服感が、この関係を拒むのだ。
俺が欲しいのは、ただ抱かれるだけの時間じゃない……
せめて藤崎に心を求められていると、それが判る何かが欲しいのに、あいつは性急に肌を奪うだけ。
それは虚しさのみを募らせる一方だった。
洋一や、その前の大学時代に付き合った事があった安芸先輩とは、こんなじゃなかった。彼らを好きで好きで堪らない訳じゃなかったけど、肌を重ねている時、心はそれなりに満たされていた。
だのに藤崎はこんなに愛していながら、抱かれていても胸が冷えて行く。
まるで空洞になったかのように。
愉悦に身は痺れそうになっていても、哀しさに涙が零れそうになる事がしばしばだった。
好きだから、対等で居たい。
守られてばかりの関係は嫌なのだ。
愛しているから、心も求めて欲しい。
身体だけを求められるなら、いっそ抱かれない方がどんなに楽だろうか。
感情を持った人間なのに、一人の大人なのに、心を要求されず自由に行動もさせて貰えない事が、どれ程に寂しく惨めなものか、藤崎は少しも理解していない。
抱かれるのを俺が避けた時、何故だと訊ねられたから、俺は「ただ抱かれるだけなのは嫌なんだ」と答えた。
どうしてそう思うのかを説明したかったのに、藤崎はそれ以上を聞こうともしなかった。
それからは、彼と過ごすのがますます苦痛になるばかりで。
身体は藤崎を求めていて、触れられたら理性の制御が利かなくなってしまうのに、嬌声を上げている間にふと寂寥感が胸に忍び込み、悦楽が一息に醒めてしまう事が多くなって行った。
昨晩も似たような事が起こって、冷や水を浴びせられた気がしたものだ。
――このままでは、俺は駄目になってしまう。
朝日を眺め、昨夜刻まれた疲労を身に沁みさせながら、そう実感した。
俺が愛しても、そして藤崎も俺を好いていると仮定しても、俺達のそれは交錯しておらず、向き合って実を結ぶ事は無い。
愛情とは、これまでに俺が経験して来たように、心を温かくさせて豊かな実りを生み出すものだとばかり思っていた。まさかこんな風に心を削り、魂を磨り減らして行くような辛い愛情があるのだなんて、考えもしていなかった……
藤崎が大阪に行く目的に、守下組を牽制する以外に何があるのかなど知りもせず、俺はキッチンに立ってコーヒーを沸かし始めた。
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