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朝の10時に大阪入りした藤崎は、リムジンの中で腹心の堀田からスケジュールと説明を受けた。
この堀田は29歳と若いながら、何事にも動じない沈着さと、どんな状況にも対応出来る頭の良さがあり、藤崎は全面的に信頼していた。表のビジネスも裏の取引も、この男に秘書的な役割をこなさせて間違いはない。
藤崎に対する絶対的な服従心を持っていて、忠実に命令に従う所も、信頼を置く要素だった。
林裕樹をホテルのバーから連れて来る際、彼の『事故死』を全て差配したのも堀田だし、裕樹に近付く事をこの部下にだけは許可してある。己が直接連絡を取れない時の代理としてだ。
「ヤクは1トン、すでに神戸から発送させております。香港に到着するのは1週間後の予定です」
堀田の平静な報告に頷いた藤崎は、端的に指示を出した。
「日本の麻取はどうでもいい、何よりDEA(米国麻薬取締局)に嗅ぎ付けられないようにしろ。近頃香港周辺にエージェントが潜伏しているという情報があったばかりだ」
「は」
藤崎組のビジネスは麻薬から賭場まで様々である。麻薬に関しては日本国内では流通させず、中継地点としての役割を負っている。アメリカから中国へ流れた麻薬は一旦日本国内に持ち込まれ、そこで形跡を絶つ。
その後を藤崎組が引き受け、強固なマーケットを持つ香港や欧州へと移送するのだ。マネーロンダリングのようなもので、単純かつ典型的な手口ではあるが、流通経路をクリーニングするには手っ取り早く、しかも追跡され辛い。
アメリカが出発点である事から、DEAが長い間世界中を捜索しているのは藤崎組も把握済みで、日本の麻取も一部動いている。しかし藤崎は様々なルートを巧みに用いて経路を完全に撹乱しているので、探り出される心配は無かった。
古典的な手法が今も尚こうして根強く用いられるのは、その簡便さと効果的な面が多々あるからで、古典と言われるゆえんはそこにある。
藤崎は取引されている麻薬が極めて粗悪な品で、精神障害や悪質な身体的症状をしばしば引き起こし、重い後遺症を残す事すらあるのも全て承知している。
麻薬を分析した鑑定官は麻薬物質の純度の低さ、精製度の悪さに絶句するに違いない。
だが藤崎は、良心の呵責は少しも感じていない。
性質の悪い医薬品を流通させるのとは訳が違う。
医薬品は人々が怪我や病気を治療する効果を求めているのだ。それに対して悪質な闇の医薬品を売るのは、善良な期待を裏切る行為であり、してはならない事だ。
一方、麻薬を快楽の為に求めようとしている人間に斟酌は一切必要無い。麻薬などを買う方が愚かなのだ。そんな人間達の末路がどうなろうと、己の知った事ではない。
それが藤崎の考え方だった。
引き続いて堀田が書類を捲り、ごくさり気無く口を開く。
「――それから、中尾洋一と安芸浩についての調査が先日終了しました。前者は会社にそのまま勤務しており、社内の女性と交際中。後者は大阪銀行の本店に勤務、家族は妻と2歳の息子が一人です」
藤崎は冷たい顔をしたまま、厳然と命令を下した。
「二人とも殺せ。生かしておくな」
「どうしても、そのおつもりなのですか」
フレームレスの眼鏡を掛けた堀田が、珍しく逡巡を掠らせる。
藤崎はちらりとそれを見遣ると、お前が口を差し挟むべき事ではないと突き放した。
「あの二人は生かして置けない。すぐに始末しろ」
「…畏まりました」
諦めたのか、堀田は大人しく了承を示し、何も抗弁しなかった。
窓の外は昼に差し掛かる陽光に満ち、ミラーガラス仕様にしている車内にも温かい大気を齎している。
今頃は裕樹もベッドから起きて、新聞やTVを見ているだろう。
外にも出られず、若く活発な身体を持て余して沈んでいる表情も、藤崎の目に見えるようだった。
堀田でさえここまで淀むのだ、まして裕樹が二人の抹殺を聞き付ければどんな反応を示すかは、想像するまでも無い。
ガラスのように誇り高く潔癖で、誰も寄せ付けないように見えながら、藤崎の強引さには頽れ、砕かれた青年。
藤崎が惹かれたのは、大抵の人間は粉々に砕かれたままで居るのに、裕樹はその矜持と自我の強さゆえに、砕かれた破片を再び集めようとする意志を持っている点だ。
だからこそ、欲しかった。
手に入れたかった。
容姿の端整さもさる事ながら、その潔癖さと精神力こそが林裕樹という青年の魅力であり、藤崎を捕らえた部分だ。
そんな裕樹が、己に何を求めているかは藤崎も充分察している。
彼を取り込む段階では強引さが必要だったが、それ以降の関係を柔軟に持続させるには、自分が余裕を持って彼に接し、包んでやれば良いのだと。
今現在の監禁にも似た対応が最適な手段ではない事を、男は痛いほど判っていた。
それなのに、余裕が保てない。
裕樹に接すればその瞬間から、焦りばかりが藤崎を侵食して行く。
これまでどんな男女を抱こうと、こんな事は無かった。
――愛している。
彼を狂おしい程に愛している。愛しているから独占している。
誰にも見せず、誰にも触れさせない程に。
裕樹の身体だけでなく、矜持を、精神をも藤崎は丸ごと支配したいと渇仰しているのだ。
彼が藤崎の心を欲しているのは百も承知だ。
己とて今度こそ言葉を与えようと、マンションに赴く度に決意して敷居を跨ぐ。
それなのに裕樹の顔や姿を見た途端、そんな決意は焦燥に凌駕され、語り合う暇もない内に彼を抱いてしまう。
この手に一秒でも長く捕らえて置かないと、裕樹が何処かに逃げてしまう不安に襲われるからだ。
厳重な監視システムの中に四六時中閉じ込めておかないと、彼がいつか鳥のように籠の中から飛び去って行きそうな錯覚に陥るからだ。
彼の両足の腱を切って歩けなくすれば、彼は絶対に自分の許から逃げて行かない。
そんな狂妄さえ思い詰めたのも、一度や二度ではないのだ。
藤崎が物理的に彼を拘束するのは、そうする事でこれらの焦りを少しでも鎮めようとする為に他ならない。
なのに身体を縛れば縛る程、裕樹の心は己から離れて行っている気がする。
だから狂的なまでに彼を見張らせて自由を奪い、焦心のままに責め抜いて。
結果、裕樹の心が更に離れた事を感じ、ますます苛立ちを募らせて行く。
その悪循環の繰り返しだった。
裕樹に取って、藤崎はただ一人の男ではなく、世界の全てでもない。
これまでごくまっとうに生きて来た彼の中には、27年という歳月の間に築かれた過去があり、常識があり、考え方がある。
それは藤崎すら介入出来ない、裕樹の精神に存在する独立区画のひとつだった。
その区画こそが、独占と監禁で愛情を表している男の想いを理解し辛くし、反発を生んでいる。
こういう関係は普通の愛情の形じゃないと戸惑わせ、藤崎に全てを委ねて生きるのを拒絶させているのだ。
裕樹が過去に付き合っていた男達の事は、藤崎も調べが付いている。
一人は、バーで彼に目を付けた際、裕樹が携帯で話していた相手。
会社の同僚であるという、中尾洋一だ。
そしてもう一人は裕樹の大学時代の先輩で、卒業と同時に別れた男。
裕樹を抱いた二人を許しては置けない。
生かして置く慈悲は己には無い。
――どんなにお前が嘆こうと私は止める気は無い、裕樹。
お前に何が判る?
お前を抱く度に私がどんな思いに駆られるのか、お前は知らないのだろうな。
過去にお前がどんな女を抱いていようがどうでもいい。
だが、お前を抱いた男達が、あの姿を見たのだと思うと――胸が焼け付きそうになる。
あの瞳も、乱れた姿態も、艶かしい喘ぎも。
私一人のものではない。
すでにそれらを知っている男が、居るのだ。
抱かれる味をお前に覚えさせた人間が。
お前の身体を知っている男が。
お前を腕に抱き取っていても、その焦躁は増さる一方だ。
過去の男達の腕の中でも、お前はああして眠ったのか?
無防備な寝顔で、身体ごと預けて。
私に甘えるように彼らにも甘え、私に抱かれる時と同じように、彼らにもあの表情を見せたのか。
微かに眉根を寄せて、時折開く瞳も虚ろで。
紅く濡れた唇からは、ただ喘ぎだけを零す、あの艶かしい顔を。
裕樹が乱れる姿は、普段隙の無い硬質な気配を纏っているだけに、余計に淫靡に映る。
この腕の中で彼を溺れさせているのだと思うと、男としての征服感や優越感に満たされ、物理的な快楽以上の精神的な愉悦を齎すのだ。
――私とお前の間を隔てる夾雑物は、全てこの手で叩き潰してやる。
そうするしか、お前を捕らえる手段は無いからだ。
だがここまで愛しても、お前は拒むのだろう。
理解もせず、反発するだけだろう。
多く愛した人間が敗者だと言うならば――きっと敗れているのは、私の方に違いない。
藤崎は自嘲気味に胸の中で呟きながら、車の外の流れる風景と陽光を眺め続けた。
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