789人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
3
夕方、藤崎がこれから其方に行くと連絡をして来た。
あいつは電話から大体15分以内に現れるので、それにおざなりに返事をした後で、届いていた夕刊を取り上げて暇潰しに読み始めた。それこそ下らない広告の隅々の小文字まで熟読する程に。
そうでもしなければ時間はとてつもなく長く、持て余すだけだったのだ。
身に付いてしまった習慣のお陰で、夕刊一本なら1時間は暇が潰せるようになった。
まず社会欄から目を通して行く。
世の中で起こった出来事を他人事として眺め、こんな事もあったのかなんて思いながら文面を追う。
選挙の結果がどうの、政党が何だのという記事も一応は読んだが、興味なんか全然無いから、文を読んでも内容は片端から抜け落ちて行って残らない。
そうやって10分ほど灰色の紙を眺めていた時、小さな記事に視線が止まった。
『歩行中の会社員が車と衝突、1名死亡』
そんな運の悪い人も居るんだと思って、被害者の年齢や氏名を確かめると、「東京都杉並区の会社員、中尾洋一さん(27)」という一文が、俺の脳に文章として入って来た。
……一瞬、把握が遅れた。
近しい人間が新聞に載るなんて有り得ないという先入観もあるし、そもそもそんな事に慣れていない。その為に、これが洋一の事を書いているのだと頭でどうにか辿りはしても、心が納得するまでには数分程掛かった。
待ってくれ。
これはひょっとして、洋一が車にはねられたって事なのか?
どうしてこんな。
待ってくれよ、まだ27歳なのに、何故事故なんかで死ななきゃならないんだ。
酷い混乱に迷い込み、動揺で頭がぐらぐらする。せめて他の記事でも読んで気分を落ち着かせようと思ったら、今度は大阪の記事が目に飛び込んで来た。
『大阪中央区の会社員、バイク事故』
大阪……大阪なら知り合いも居ない。
そう思って安心していたら、その被害者の名前は、記憶にしっかりと刻まれている人の名前だった。
安芸浩。
大学時代の先輩で、俺が生まれて初めて抱かれた同性だ。
もうとっくに別れていて、新年に年賀状を遣り取りしている程度。奥さんと子供が写った写真が昨年のそれに印刷されてあったのを覚えている。
そうだった。
そう言えば安芸先輩は転勤で、1年前から大阪住まいだったんだ。
だけど待ってくれ、一体これはどういう事なんだよ。
悪い夢を見ているんじゃないかとさえ疑ったが、残念ながら今の俺は確実に目を覚ましていて、虚構では無かった。
俺が過去に付き合った人が二人も同時に事故で亡くなるなんて、偶然なんかじゃ絶対にない。
そうだ、こんな事をするのはあの人間以外に有り得ない。
俺は怒りの余り、夕刊をテーブルから払い落とした。
紙面がバサリと派手な音を立て、床に広がる。
――藤崎だ。
あいつが二人を手に掛けたに違いない。
俺の存在を『始末』したのと同じく、事故なんかで二人を殺したんだ。
きっと俺の過去を調べ上げて、彼らの事を知って。
ひょっとして大阪の用事ってのはこれの事だったのか?
先輩を手に掛ける算段を整えに行ったとでも?
何て奴だ、あんな最低な男は居ない。
苛々と室内を歩き回り、壁の時計を見上げ、電話から15分が経過しているのを知ると、あいつがここに来たらすぐにでも罵声を浴びせてやろうと待ち構えた。
程なくして、電子ロックが解除される音が響く。
廊下を通る音、リビングの扉を開く影。
現れたのは、黒いコートを羽織った、大柄な男の姿。
藤崎は俺が怒りに震え、乱暴に放り捨てたと判る夕刊の哀れな状態を見て取ると、もう載っていたのかと平然と言いやがった。
「……もう載っていたのか、じゃないだろう」
憤怒にはち切れんばかりになっている腹から、やっと俺は声を絞り出した。
夕刊を勢い良く拾い上げ、これは何だよと藤崎の前に突き出しても、この男は眉ひとつ動かさない。それに更に頭に来た俺は、自分がどんなに腹を立てているかを少しでも表す為に紙面をあいつの足元に投げ付けた。
そうでもしなければ、全身が激怒で沸騰しそうだった。
「どういう事だよ、洋一も安芸先輩も二人同時に事故だって!? 有り得ない、こんな事は絶対にある訳が無い! あんただろ冬堂、あんたが二人を殺したんだろ!」
藤崎は答えない。
俺は真っ直ぐ突進して距離を詰め、何故だと絶叫した。
すると返って来たのは、無情な声だった。
「お前が抱かれた男は、過去に二人――だから、彼らを纏めて始末した」
「な…んだって…」
洋一の温かい笑顔が、ヘマをして落ち込んでいた俺を慰めてくれた安芸先輩の顔が、一挙に脳裏に押し寄せる。
彼らは、もう、この世の人でないのだ。
あの身体も、あの声も。全部が消えてしまったと思い知らされても、悪い嘘か冗談としか思えない。
思考がふわふわと定まらず、身体も宙に浮いているような感覚だった。
……これは、俺が藤崎を選んだ所為なのか。
ぼんやりと、そんな事が頭に浮かんだ。
俺の選択がこの事態を招き寄せたのだとすれば、まったく考えても居なかった弊害と言わざるを得ない。
幾ら藤崎でも、俺の人生さえ奪ってしまえば、過去までは壊さないと思っていた。
だのに、俺の為に、二人は殺されてしまったのだ。
洋一にだって御両親や友人が居るのに、安芸先輩は子供だって居るのに。
その家族達をも俺は絶望のどん底に叩き落してしまったのだ。
知人達の命を奪わせてしまった事に心底からの畏れを覚えると同時に、それをさせた男の身勝手さへの怒りが、腹の底から卒然と湧き上がる。
俺は弾かれたように藤崎の襟元に掴み掛かった。
「何故だっ!? なぜ洋一を、安芸先輩を殺したんだ、俺を抱いてたからってただそれだけで、二人が殺される理由になんかなってないじゃないか!!」
一体、洋一が、安芸先輩が、何をした?
俺が藤崎の情人になってから彼らと浮気して寝たという訳じゃない。
彼らは藤崎組と直接の接点などありもしないし、まして藤崎本人に害を為したこともない。
ごく普通に社会の中で生きている一員だ。
俺だって普通の男として彼らを好きになって、普通に別れた。
それを、どうして。
俺を抱いていた人間だからと言うだけで、何故命を奪われなければならないのだ。
こんな理不尽な話があるだろうか。
獣じみた悲鳴を上げ、ワイシャツの襟を狂ったように揺さぶり立てる俺を、藤崎は冷ややかに見下ろした。
「あの二人はお前の身体を知っている、特に安芸浩はお前を最初に抱いた男だ――私がそんな奴らを生かしておくとでも思ったか」
微塵の躊躇いもなく、いとも容易く俺の動揺を斬り捨てる科白。
たった二人でしかないじゃないか。
俺の現在を、将来をその手で奪い、身体も以前の二人とは比べ物にならない程に貪り尽くしているのは誰だ。
毎晩責め抜くその痕は今も俺の肌に鮮やかに残っているというのに、それでも足りないと言うのか。
過去までも踏み躙り手中に収めないと気が済まないと言うのか。
勝手にも程がある。
「もう判っただろう、お前は私のものだ。お前の身体を知っている男は、私一人で充分だ」
藤崎は声よりも更に冷たい視線を寄越してそう言い放ち、俺を一方的な接吻で封じようとする。
抗って歯列を閉じようとしたが、その前に狡猾な舌は俺の中に滑り込んでいた。
「…んっ…!」
俺は藤崎の胸を拳で叩き、引き剥がそうと必死になった。
己が厭わしい。
こんな怖ろしい男に惹かれてしまった自分が、こんな男をまだ愛してしまう自分が。
憎悪が渦を巻いていると言うのに、藤崎を憎み切れない。こんなに憎いのに、心は彼に絡め取られたまま。
現に今も、側にある力と温もりを感じただけで、制御を失い掛けている。
俺が藤崎を愛したのは、そもそも、この強引さに惹かれてしまったから。
彼に翻弄される事に陶酔すら覚え、自ら降伏してしまう。
本当に力のある人間は、他者を操ってすら、当人を心酔させる。
それは麻薬のようなものなのだ。
操られる事に溺れて行き、藤崎の思惑ひとつで命すら捨てさせられても、恨みすら残さず、進んで死んで行く。
藤崎はまさに命懸けで生きる人々を率いるに相応しい存在だった。
自分でも判っているからこそ、彼は表の世界を捨てて、自ら裏の世界に足を踏み入れたのだ。
唇を重ねたまま藤崎が俺の膝の裏を掬い上げ、寝室まで大股で抱き上げて行き、即座に組み伏せる。
嫌だ、抱かれたくなんか無い。
二人を殺した男になんか。
心が叫んでも、すでにこいつの唇は俺の項を貪り、服の下から胸元を弄んでいる。
シーツを蹴って暴れる俺の脚も、この男のそれで封じられてしまった。
どうすれば。
どうすればこの男に報復が出来るのか。
洋一と安芸先輩を手に掛けた相手への、怒りの示し方は。
理性を喪失する寸前の頭でやっと弾き出した答えは、藤崎にではなく、二人のどちらかに抱かれていると思う事だった。
そうして目前の存在を故意に無視してやるのだ、と。
――記憶を重ねろ。
洋一か安芸先輩に抱かれていると思うんだ、思い込め。
俺は繰り返し自分に命じ、藤崎の愛撫を二人から与えられるそれへとスライドさせようと必死になった。
二人のどちらからも与えられた事がない程に、この男の戯弄は巧みで手馴れているから、最初は全然上手く行かなかった。
半年間、俺は身体の隅々に至るまで彼の戯れを受け、唇で愛され、指で犯されて来たのだ。すでに俺の感覚が、彼に寄り添う事を本能としてしまっている。
快楽はいとも容易く俺の努力を打ち砕き、嘲笑うように全身を藤崎で満たし、二人の記憶を追い遣ろうとした。
負けるな、こんな男の事なんて無視してやれ。
抱かれながらも他の男の事を思っているのだと見せ付けてやれ。
藤崎の名を呼びそうになる精神を叱咤し続ける内に、一瞬だけ、洋一との刻が過ぎった。
足の付け根を唇で呑み込まれ、温かく湿った舌先で淫らに翻弄されている時、洋一のそれと上手く重なったのだ。
俺はその瞬間、呼んでいた。
洋一、と。
まさに達する直前だったが、藤崎ははっと唇を離し、俺を見詰めて来た。
頂点を極める寸前で見離された為に、俺は下肢が痺れるようなもどかしさに息が荒くなる一方だったが、それでも肘で上体を起こし、藤崎の双眸を見詰め返した。
整い過ぎる程に鋭く整った相貌が、昏く強硬な表情に変わり、猛々しさを帯びる。
ローションを掴むなり、こいつの指が俺の中を探り始めた。
いつもなら丁寧に慣らしてくれるのに、今日は苛立ちをそのまま表しているかのように乱暴で、性急だった。
まだ充分に馴染んでいない内に、藤崎は俺の背筋を貫いた。
どんなにもがき、果てを与えてくれと懇願しても、こいつは非情に俺を弄玩して、決してその終局を見せようとはしなかった。
――どうして、こうなってしまうのだろう。
本当は、こんな抱かれ方はしたくない。
本当は、あんな事はしたくなかったんだ。他人の名前を呼ぶなんて。
どうして俺達はいつも、こうなんだ。
何故、傷を刳り合うような愛し方しか出来ないのだろう。
俺を組み敷く胸板の重みも、首筋や耳朶を嬲る唇の動きも、何もかもが心地良い。
すぐ上にある藤崎の顔を見ただけで、胸が張り裂けそうな愛おしさが込み上げ、涙が滲む。
愛しているのは彼一人なのに、何故素直に愛させてくれないんだ。
何故俺の憎しみだけを駆り立てるような事ばかりするんだ。
二人を殺された悲しみに浸されながらも、藤崎の動きに我を忘れて喘ぎ、悲鳴を迸らせた。
もうすぐ手が届きそうなのに、藤崎は逸らす。
高みをほんの僅か見せながら、俺を残酷に引き戻す。
「冬堂……お願いだ、もう、ああ…!」
満汐にも似た波に翻弄され、踏み拉かれて、無我夢中で冬堂の名前だけを呼んだ。
激越な悦楽と焦らしに、本当に気が狂ってしまいそうで。
汗が腰や脚を伝い、しとどにシーツを濡らしているのを認識出来たのが、意識の最後。
侵略される感覚だけに溺れ、足掻いて、漸く昂ぶりを与えられた時、俺は完全に気を失った。
※ ※ ※
それから夜明けまで、まるで劫罰のように俺を幾度も荒々しく抱いた後で、藤崎は出て行った。
二人を殺めた事に、一言の謝罪も、改悛の言葉も無いまま。
体力を失った俺が深い眠りに陥り、目覚めたのは、夕方過ぎの事だった。
肌は綺麗に拭われ、シーツも換えられた状態で、俺が眠り易いようにされている。
傍の枕に頬を寄せたら、藤崎の薫りが残っていた。
常に纏っている、グッチの微かな香料が。
それを味わいながら目を閉じると、俺が洋一の名を呼んだ時のあいつの瞳が、まざまざと瞼の裏に浮かび上がった。
驚愕、愕然。
そんな物とは少し違う。
精神を大きく左右に揺さぶられたというより、底の部分を深く揺るがされた、そういう目付きだった。
名状し難い、俺の心に深く突き刺さるような――
あれは、何だったのか。
藤崎はどんな風に思い、どんな感情を抱いたのか。
だが、今となってはどうでも良い。
俺は――自殺する事だけを考えていた。
二人への贖罪の為に、藤崎への復讐の為に。
そして藤崎を愛した自分自身を罰する為に。
これ以上藤崎の関わった空間には居たくなかった。
あいつに与えられた品なんて一切持ちたくない。
俺は重い身をベッドから離し、荷物ひとつ持たず――服も何もかも藤崎が買った物だったから――シャツとジーンズという、最小限かつ廉価な衣服だけ纏うと、引き出しから携帯を取り出した。
藤崎がとっくに契約を切った、俺のサラリーマン時代の携帯。今では自分の身体と、この古い携帯電話だけが、あの男から与えられた物ではない、自分の所有している物だった。
勿論電話は使えないけれど、中のメモリーやメールは生きている。昨日充電したばかりだから、電源を入れるとすぐに待ち受け画面が光った。
……馬鹿みたいな話だ。
こんなちっぽけな銀色の機械に、自分のプライド全てと希望を託しているなんて。
でも藤崎に買って貰ったのではなく、俺の稼ぎで買った物品は、すでにこれしか無い。
こいつは俺の最後の支え、俺の精神が所持する事を許した唯一の品だった。
俺はジーンズのポケットにそれを納め、コートも羽織らず、靴を履いて玄関から出た。
出入りは全て玄関と廊下のセンサーでチェックされている。エントランスホールを出るのにも暗証番号が必要で、俺はその番号を知らない。出入りをいちいち監視されるのが鬱陶しかった上、マンションの建屋から出るに出られなかったから、俺は半年もここに閉じ込められたままだったのだ。
だが俺は追い詰められた頭の中で、ここの住人の誰かに番号を聞く事を思い付いた。
立ち話すらした事が無いけれど、同じ住人の俺が度忘れしたと言えば、恐らく教えてくれる筈だ。
そして俺は、半年振りにこの檻の外へと歩き始めた。
もう二度と戻る事の無い檻の、外側へ。
最初のコメントを投稿しよう!